白い鳩の歩くまま思うまま

足で稼いだ情報から、面白いデータの世界が見えてくる

Landscape with River

江戸川、金町浄水所の第二取水塔。とんがり帽子の取水塔としてちょっぴり有名。葛飾区金町にて

もし今日の東京に果たして都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素をば樹木と水流に俟つものと断言する。山の手を蔽う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である。
永井荷風(1986)『荷風随筆集(上)』より「日和下駄」p23

Vizはこちら

https://public.tableau.com/app/profile/haruna.matsumoto/viz/LandscapewithRiver/RiverMap

川という思い出

 身近なところから興味の対象を見つけ、それを様々な角度から深掘りして一つの記述を成す。「記述」というのは表現様式であり、成果物は文章であったり、グラフや写真であったり、見よう見まねの統計的解釈であったりするが、いずれにせよ私の好奇心を身の回りの世界に投影して、そこで観察された数々の現象を「データ」により可視化することを記述と呼んでいる。それを人生のライフワークにしようと思うきっかけとなったのは、「川」にまつわる、あるささやかな「発見」だった。

川を渡る電車(左:隅田川総武線、右:江戸川と京成本線

 大学4年間、東京の東側の実家から、総武線と中央線を乗り継いで多摩地域の大学へ通学していた。片道1時間45分!の行程、電車に揺られる時間がその大半であって、ぼんやり車窓からの眺めを見て暇をつぶす、そんなある時ふと気がついた。中央線の車内は、総武線と比べてずいぶん静かであると。総武線に乗っているときはとにかくガタンゴトンと大きな音がして、よく車内が揺れた。それは鉄橋を通過するときの音と振動であり、それが絶え間ないのは鉄橋を渡る回数が多い=川が多いからであると。

 都心から総武線に乗って千葉方面を目指すと、ひと駅ごとに川を渡る。まず浅草橋と両国の間で隅田川、両国と錦糸町の間に大横川(親水公園になっている部分もある)、錦糸町と亀戸の間に横十間川、亀戸と平井の間に旧中川、平井と新小岩の間に荒川(放水路)と中川(放水路)、新小岩と小岩の間に新中川(放水路)、そして小岩と市川の間に江戸川。いくつもの河川、それらの由来をたどれば、関東山地に端を発して流域を潤す自然由来の河川あり、舟運を支えた運河あり、治水を目的として開削された放水路あり、田畑に水を供給するために開かれた農業用水路あり、言うなれば東京東郊を貫流する河川の集大成。

河川空間再生の例
左上:一之江境川親水公園、右上:旧中川、左下:小松川境川親水公園、右下:小名木川の親水テラス

 東京はその東、隅田川、江戸川の2大河川が東西を隔て、その間を中小河川が縦横にめぐる。南は湾岸の高層マンション群の起立をまたいで東京湾に臨み、北はそのまま埼玉の低地に接続している。平坦な大地は変化に乏しく、上手も下手も大した高低差はないが、川に沿った堤防の上に立つと、低い灰色の家並みが目の前にぱっと開けて、空を映し出す広い川面を眼下に、ぐるり四方を見渡せば、臨海の高層マンション群から、市川国府台の大学あたり、さらに都心のビル街まで一望できるのだ。

 また、地域の古い地図を開けば、現在は川としての形態をとどめてはいないけれど、少し道幅の広い道路に、あるいは親水公園や親水緑道に姿を変えた、旧河川の姿を数多く見つけることができる。旧河道を見分けるポイントは?道がやたら蛇行を繰り返していたり、1本の太い幹線がまっすぐ伸びていて、そこから土地の傾斜の方向に沿って細い道がいくつも枝分かれしていたり。実際に町を歩くときも、地図の上で想像を膨らませているときも思う、これも昔はみな川だったのだろうと。

中川とその放水路(左:奥戸付近の中川、右:新中川の松本橋)

 私の実家の目と鼻の先にも川があった。よく整備された堤防下の原っぱにはシロツメクサが群生して、四つ葉のクローバーを見つけたこともあった。一時期、川辺のフェンスの外にシナガチョウが数羽、放し飼いかそれとも捨てられたか、いつも小さな群れをつくっていて、地元の子どもたちが追いかけるそぶりを見せると、良く響く渡るラッパ音で鳴き、大きな尻を振ってよたよた逃げていった。川の水は快晴の日も大雨の後も、いつもどんよりと灰茶色に濁っていたけれど、ある種の魚は捕れるようで、帽子に折りたたみ椅子を携帯した釣り人の姿は定番の光景だったし、堤防の上を歩きながら、じっと横目で川のほうを眺めていると、たまに大きな魚が水面を突き破ってざぶんと身を翻すこともあった。

堤防と護岸

山の手の川(左:目白台下の神田川、右:善福寺川とその緑道)
下町の川(左:葛飾四ツ木付近の綾瀬川、右:江戸川区篠崎付近の江戸川とその河川敷)

 ある程度大きな川にはみな堤防があったから、川に近づくためにはまず堤防を越えなければならない。堤防は大半が人工的な盛り土だが、その周囲には自然堤防の名残か、ちょっとした高低差のある坂道もあった。いずれせよ川への道は上り坂である。また高低差のない平らな大地では、堤防に上に立つことが広い眺望を得る数少ない、かつ身近な手段である。しかし、それが台地を流れる山の手・武蔵野の川になると、治水目的で本来よりも数メートル深く掘り下げられた河床は沿岸の地面よりずいぶんと低い。まるで谷底を流れているようだ。

 台地上の河川の中には、川へ至る道が傾斜のついた下り坂であることが往々にしてある。例えば、国分寺駅の南側の切り立った急坂(東京に大雪が降った翌日、通学途中ここを通る際、地面に厚く固まった氷に足を取られ危うく滑り落ちかかり、ヒヤッとした思い出がある)の下を流れる野川。目白台から南向きにすとんと落ちる崖下の神田川。三田綱町の丘と川沿いの低地をつないで斜めに架かった麻布二の橋下の古川。山の手の川は低地を流れるから、その両側は必然的に川沿いの土地よりも高くなる。そして周囲よりも頭一つ抜けた高台の地は、古くから特権階級、富裕な市民の所有地として彼ら彼女らの邸宅が並んだ。それは庭付きの戸建て住宅が低層マンションになっても変わらない。山の手の高級住宅地は高層の台地にあって眼下に川を臨むのだ。

浅く澄む、深く濁る

国分寺崖線と湧水群(左:お鷹の道、右:東京経済大学構内の新次郎池)
野川の風景(左:武蔵野公園、右:野川公園

 山の手の川と下町の川では、水量にも大きな違いがある。前述したように、国分寺駅を降りて大学に向かう道の途中に大きな坂があった。国分寺崖線である。その崖下の至る所で水が湧き、それが集まって小川を形成していた。台地上には湧水池に源を持つ河川もいくつかあって、このように崖線の等高線に沿って分布している。水は透明で、濁りはほとんどない。散った桜の花びらがくるくる回りながら、時には底から背を伸ばした水草に絡まりながら、流れていた。崖下の川は、普段はちろちろとうっすら水が流れる程度で、指先を浸すくらいの深さしかないが、まとまった降雨の後は水量が2倍3倍と膨らんで、水も灰色に濁り、まるで別の川かと見違えるほどその姿を変える。

 一方、これが東側の市街を流れる川になると、常に川底が見えないくらい満々の水をたたえて、たぷたぷと上下に小波をたてながら流れ下るのである。海岸に近いところでは塩水が入ってくる。湿気の多い日の夕方など、海からだいぶ離れた私の住む町でも、べたべたした潮の香りがした。そして、水深があり川幅も広いので、釣り船、屋形船、ヨット、観光船等、多種多様な船が浮かんでいる。その水は、どの川であっても、いくら広い川面に空の色を映しているとはいえ、灰茶色に濁ってきれいではない。もっとも親水空間として整備された旧中川等は、江戸川や隅田川とくらべて透明度が高いけれど、それでも武蔵野台地の湧水群にはかなわない。

江東の2大河川(左:今井あたりの江戸川、右:厩橋の川下から望む隅田川

さす潮、ひく潮に漂ってくるのが、河岸ふちなどを通っていると、どこからともなく、甘酸っぱい、なまぐさいような、もののにおいに、ふと、包まれることがある。土地の人はこれを磯くさいというが、直に海草の散らばった浜辺で嗅ぐものより、当たりがやわらかい。後に山の手に住んでからでも、私はよく歌舞伎座の二階、東さじき裏の廊下で、忍びよるこのかおりにふれて、望郷の思いに耽ったことがしばしばある。
鏑木清方[著]、山田肇[編](1989)『随筆集 明治の東京』より「失われた築地川」p102

今に残れる深川の運河。左:仙台堀川、右:大島川西支川

見渡す、平久橋、時雨橋、二筋、三筋、流れを合わせて、濤々たる水面を、幾艘、幾流、左右から寄せ合うて、五十伝馬船、百伝馬船、達磨、高瀬、埃船、泥船、釣船も遠く浮く。就中、筏は馳る。汐は瀬を造って、水脚を千筋の綱に、さらさらと音するばかり、装入(もりい)るる如く川筋を上るのである。さし上がる水は潔い。
泉鏡花(1928=1976)「深川浅景」『大東京繁昌記 下町篇』よりp74

 つまり、東京の東西の川のある光景に見られる差異は、一つの川の上流と下流に代表されるように、その海からの距離が異なること、さらに地形的な要因が根底にありつつ、そこに利水や治水といった人工の力が加わって成立しているようである。

 

地勢の差異に人工を加えて

国分寺の黒鐘公園(左)と練馬の石神井池(右)。池の周りの高級住宅地は俗称「練馬のビバリーヒルズ」
国分寺崖線に沿う住宅地には田園の気分が残る。小金井(左)、国分寺(右)

 東京の東と西では川の風景が違う、という小さな気付きから、いろいろな差異が目に付くようになった。次に目を引いたのは植生である。当時、樹木の葉っぱを見て樹種を識別するという演習をとっていた。これが結構面白く、復習も兼ねて、家の周りと大学の周りで対象の樹種がどれくらい観察されるのか調べてみた。大学の周辺では授業で出てきた樹種のうち7割くらいを見つけることが出来たが、地元周りでは3割程度の種しか見つけられなかった。しかも、生えている木の感じが微妙に違うような気がした。府中の大学あたりから中央線に沿った地域では、公園や神社の境内のみならず、ちょっとした古いお家の庭や、街道沿いの街路樹にまで、幹の太い、枝ぶりの立派ながっしりとした大きな木というものが、ごくごく一般的に見られたのに対し、東側の低地では生えている木がなんだかひょろひょろして、特に街路樹など典型的だが、あんまり大きな木がない。旧家の屋敷林や社寺境内の御神木を探してようやく似たような樹木を見つける、あるいは江戸川に沿った篠崎小岩から金町水元方面を歩くとそれらしい木々がまとまって生えた光景を見る。いずれにせよ、「樹木」というカテゴリーでは、どうも東京の東側には見るべきものがあまりないように思えた。

葛飾という田舎(左:金町の葛西神社、右:水元の畑と屋敷林)
江戸川に沿う東小岩から二景。この辺りは比較的土地が高く、旧家の屋敷林も見事なものが多い

 それは主として地勢が異なるからだ。東京は「下町」「山の手」という2つの地域に分けて語られることが多いが、それは地勢上の特徴を踏まえた呼称である。「下町」は関東平野を流下するいくつもの河川が運んだ土砂が堆積していつしか陸地となった場所を起点に、海に近いところは浅瀬を人工的に埋立てて陸地を拡大した、平坦で高低差がほとんどない低地。地下水位が高く、縦横にめぐる大小河川に、あちこちに散在する池沼の類。全体的に湿っぽい土地柄であるからいきおい湿気に強い植生が優位である。今を遡ること約100年前の大正時代の史実をここにあげよう。隅田川を境にその東、現在の墨田区江東区の一部および葛飾区と江戸川区全域の、大正末期における風土、土地の成り立ちから現代社会生活まで幅広く記録した総合地誌『南葛飾郡誌』の「自然的環境―植生」の章によれば、樹木であればハンノキ、トネリコ、エノキ、ヤナギの類、水田や池沼には多種多様な水草が見られたという。一般に草本は多湿を嫌うから、「水と陸との中間にある様な」この低湿地に見られる樹種は非常に限定的であったとする*1

大学のキャンパスに感じる四季。早春の景(左)、晩秋の景(右)。いずれも東京農工大学府中キャンパス

 対する「山の手」、その西方に広く深く、所謂「武蔵野」の景観をなす地域の地形は複雑だ。地球の寒暖差に伴う海進・海退の繰り返しの中で陸化した海底平野の上に火山灰が厚く積もり、地表に降った雨を地中深くに浸透させてしまう、平常時は水に乏しい土地高燥な台地を生み出す一方、その台地を削って流れ下る中小河川の作り出す低地は湿潤で水に富む。山の手台地は井の頭池を水源とする神田川の南北で2分される。北の武蔵野台地は概ね東西に流下する石神井川その他の河川により土地の高低に沿って浸食され、まとまりのある台地面を形成しているが、それより南側の目黒川、多摩川によって浸食される下末吉台地は、前者より数メートル標高が高く、かつ鹿の角のように複雑に谷が入り組んで、非常に起伏に富む地形となっている*2。以前住んでいた池袋では周囲にこれといった坂もなかったが、現在住まう麻布、三田、高輪界隈を歩いていると、一つ坂を下るとまた次の坂というように連続して坂に出くわすものだから、なんと坂の多いまちかと思っていたが、ちゃんとした地勢上の裏付けがあったのだ。

水郷の美、林の美(左:水元公園の小合溜井、右:浅間山公園)
東西に見る晩秋の景(左:再び国分寺お鷹の道、右:荒川河口、葛西橋にて)

西郊の特色が丘陵、雑木林、霜、風の音、日影、氷などであるのに引かへて、東郊は、蘆荻、帆影、川に臨んだ堤、櫻、平蕪などであるのは面白い。これだけでも地形が夥しく變つてゐることを思はなければならない。林の美、若葉の美などは、東郊は到底西郊に比すべくもない。その代わりに、水郷の美、沼澤の美は西郊には見ることの出来ないものである。
田山花袋(1923)『花袋紀行集 第二輯』より「東京の郊外」p22

 

水の災い

 東京はその東西に対照的な郊外を持っていた。それは元々の地勢に由来し、それをベースとしつつ後から加えられた人工的な環境改変によって、一方は水田稲作地帯となり、また一方は畑作農業地帯となって、川と湿地の田園、樹木と丘陵の田園と、それぞれの地方色を形成した。そこで得られた特色はその土地固有の「風土」となって、農村が都市の一部となっても、未だに機能し続けている。

山の手と下町(左:杉並区阿佐ヶ谷付近、右:墨田区墨田、東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅付近)

 水に恵まれた低地は、平坦で広大な土地を近代工業地帯に転換させ、昭和の初めには周辺の農村を飲み込んで大中小の工場とそれを取り巻く商家、住宅(商工業併用住宅も多い)に代表される近代的「下町」を成立させたが、高度経済成長期後の工場の地方移転、海外移転によって工場の多くは姿を消し、生じた空隙は団地、高層マンションと変じて、工業を軸として成立した地域社会に大きな転換が訪れた。うまく時流をつかんで乗り換えるまち、流れに乗り遅れて停滞するまちとその模様は様々だが、その成立地盤は変わらない。水に恵まれるということは同時に水のもたらす災いを受けやすいということだ。多くの川や池沼が埋立てられ、放水路を新しく開削し、地面はしっかり舗装されても、元々の土地の性質は変えられない。むしろ、大雨の際に一時的に水を受け止めてくれる田んぼや池沼や用水路が減じたせいで、降雨がストレートに下水に集まりやすくなり、浸水のリスクを上げた可能性もある。さらに、工業地帯化によって大量の地下水をくみ上げたせいで広範囲にわたる地盤沈下が発生、その爪痕は深く、とくに荒川の両側は、東京湾の干潮時の海水面よりも低い土地、通称海抜ゼロメートル地帯が広がっている。堤防がなければ、これらのまちはたちまち海底に沈むだろう。満潮面よりも低い土地を合わせれば江東五区の大部分にわたる。ここには200万を超える区民の生活がある。わずか100年に満たない工業化の歴史は、確かに時代の要請に答え、土地を潤沢な資本で潤し、都市形成の核となったことであろう。しかしそれがために払った代償はあまりにも大きいと言えるのではないだろうか。

海抜ゼロメートル地帯を流れる川(左:江戸川区小松川付近の荒川、右:江戸川区松江付近の中川)

 一方、武蔵野の台地は官公庁街として、閑静な住宅地として、清浄な空気と水を求める別荘地として、近代的「山の手」を誕生させたが、こちらも戦後は華族解体、財閥解体、あるいは相続税が払えないといった問題で、広大な屋敷町は解体し、ミニ開発が各地で進行、限られた一部地域に戦前の山の手の雰囲気を残しつつ、新宿、渋谷、池袋のような巨大繁華街を成立させ、住宅街だけではなく、商業的な意味でも東京の中心になった。現在東京にある富、それは金銭的な意味でも、情報の多さという意味でも、ひとや暮らしの多様性という意味でも、その多くを「山の手」が握っていると言えるだろう。その開発は高台のみならず、谷底の低地までも覆いつくした。アスファルトで固められた地面は雨水の浸透を妨げるから、そのまま水は下水に集まり、下水から河川へと直結する。ゆえに少しの大雨でたちまち下水は溢れ、川に押し寄せた水はその排水能力を超えて氾濫し、たびたび川沿いの低地の住宅商業地を浸水させるのである。

 土地の持つ性質というものはそう簡単には改変できない。だからこそ、その土地固有の地勢、由来に配慮した利用なり、開発なりが必要であろう。自然に抗い自然を改変しても、最後に痛い目を見るのは、後世の人間なのだから。

 

境界線

左:たそがれるユリカモメ(旧中川にて)、右:中州から清澄方面を臨む(隅田川清洲橋にて)

鶸色(ひわいろ)に萌えた楓の若葉に、ゆく春をおくる雨が注ぐ。あげ潮どきの川水に、その水滴は数かぎりない渦を描いて、消えては結び、結んでは消ゆるうたかたの、久しい昔の思い出が、色の褪せた版画のように、築地川の流れをめぐってあれこれと偲ばれる。
鏑木清方[著]、山田肇[編]『随筆集 明治の東京』(岩波文庫、1989)より「築地川」p84

 5月の連休中、深川に住む友人と会う約束があって、久しぶりに隅田川を訪れた。さっぱり晴れて、良い天気、時間もあるから歩いていこうと、三田の丘の上から出発すると、芝公園を横手に浜松町、新橋を経由して、銀座に入ったあたりで東に向きを変え、築地本願寺築地場外市場の裏手から勝鬨橋に出ることが出来る。正味1時間弱といったところ。案外近い。

 隅田川も最下流に当たるこの辺り、特に新大橋を過ぎると川幅も一気に広く、両岸も遠のいて、陸が水に没するところ、湾岸の雰囲気いや増して、川は既に海の一部と言えるだろう。隅田川を彩る二大名橋、清洲橋永代橋から南、月島と新川を結ぶ中央大橋佃島超高層マンション群の背後に広がる月島の古い市街、路地の奥には戦前?戦後?間もないころに建てられたであろう長屋が今でも残っている。隅田川下流の両岸のまち、全体的に一戸建てが少なく、川沿いの倉庫や工業はみな中低層のマンションに変わった。日本橋、京橋に隣接する関係か、会社のオフィスも随分と多いが、大通りから横に入る小道に紛れ込めば、通り沿いの喧騒とは一変、居住用のアパートやマンションが控えた昼も静かな住宅街、それは川の西側より東側でより顕著だ。かつての倉庫や町工場や材木屋は、アパートやマンションにその大半が入れ替わって、それでも一部残れる旧産業と、ここ10数年で急速に増えた各種スタジオ、こじゃれた喫茶店ないしレストラン、そしてアート施設等の所謂意識高い系店舗が住宅街に混在する。山の手と違って高級な色彩をまとうでもなく、豊富な樹木に恵まれるわけでもない。有機的な雰囲気はなく、ただ無機質の、コンクリート打ちっぱなしの内装に代表されるような。そんな色彩に乏しい街並みでひときわ目を引くのは、青々とした水辺の風景。

亀島川の河口。正面に大川端リバーシティの高層マンション街が見えている(中央区新川、高橋の上より)

 東京の都心とその東側に数多く分布していた河川はその多くが埋立てられ、旧河道は公園なり駐車場なり一般道路になって、その面影を忍ぶよすがもないが、中央区も新川あたりまでくると、日本橋川が首都高の蓋から自由になって、川面いっぱいに光を浴びているし、その少し南側では亀島川がぐるりと新川のまちをめぐって隅田川に接続している。永代橋を渡って対岸に出ると江東区に入るが、こちらに来ると小名木川、大横川、仙台堀川大島川西支川、平久川等の幾つもの運河が縦横に市街を画する。江東区の深川地区は、現代東京で最もよく水の景色が残された場所であると思うが、川一つ隔てただけで空気が変わるのは今も同じ。

 昔から隅田川の東に生きる人間は、隅田川を渡って都心に出ることを「東京に出る」といった。仕事でも買い物でもそうだが、特に顕著なのが教育面。東東京では、経済的に余裕があり教育に熱心な家庭は、子息を早い段階で「東京に出す」。それは小学校、遅くとも中学校からは地元ではなく「東京の学校」に行かせるという意味であり、地元の教育水準の低さに見切りをつけて、他所で高い教育を受けさせるためである。かく言う私も周囲よりだいぶ遅かったが、最終的には「東京に出る」ことになった。これも、川向こうと呼ばれるこの地域が東京の中で占める地位に関係するのだが、それもまた土地固有の地勢と開発史の賜物である。最近は高層マンションも増え、相次ぐ再開発で街並みもすっかりきれいになり、住民も入れ替わっているだろうから、かつてほどの独特な地域性は薄まっているとはいえ、ある時代までの川向こうに育った人々にとって、隅田川は「川向こう」と「東京」との間に横たわる、いつかは越えるべき境界として、機能していたのである。

左:向かい合わせの狛狐(猿江神社にて)、右:永代橋の上流にて(隅田川にて)

 そんな隅田川も、越えてしまった現在からしてみればもはや過去か。山の手の住民となり、身辺も大きく変わったのだから。それでも川のある街への回帰願望は断ちがたい。東京の東側に育ち、幼い頃より水辺に親しんだせいか、山の手の住民となった今でも、やはり川のある風景に心惹かれる。川のある街に、それもできれば居室の窓から広い水面を臨んでみたいと願い続けて、数年前に見つけたちょうど良いおうち、南向きの壁一面を窓にして、そこから眼下一杯に広がる隅田川。ひったきりなしに川を上り下りする観光船や橋を行きかう車や人を上から眺めるのは新鮮な気分だが、日が落ちると川を挟んで対岸正面に展開される月島の夜景がさぞかし綺麗だろう。池袋の家を引払うとなったときに、都合よく募集がかかったから、次の住居はここにしようと思って、、、しかしそうはならなかった。人生のターニングポイントは何の前触れもなく訪れる。憧れのおうちと、近場にあってやはり川の見えた候補物件もろとも全てを諦めざるを得なくなって、数年越しの引越し計画が一瞬にして水の泡、失意の果てに、しがらみのない全く新しい土地で人生を立て直すべく選んだのが山の手の、今の棲み家。

 そんなわけで引越してから4か月近く、この隅田川下流域のまちを避けていたのであるが、ついに機会が巡ってきて、久々に足を向けた。まだ川向こうへ渡る気力はないから、箱崎、浜町のテラスを歩いて対岸に目を向ける。山の手=東京デビューの境界線としての隅田川は乗り越えたが、今度は隅田川が体現する「過去」と対峙しなければならなくなった。懐かしくもいとわしい過去。それを克服したときに初めて、私は以前のように運河めぐるまちにあそび、隅田川の両岸を自由に行き来して、その風景の中に我が身を置くことが出来るのかもしれない。

君なつかしと都鳥、幾代かここに隅田川、行き来の人に名のみ問われて
★久保田淳『花のもの言う―四季のうた―』(1984、新潮選書)よりp110

 

Vizについてのあれこれ

データセット

  1. 東京都環境局『公共用水域水質測定結果』(2019年、2020年、2021年度)
  2. 国土交通省『土地履歴調査 首都圏地区Ⅰ 東京地区』「東京東北部」「東京東南部」「東京西北部」「東京西南部」
  3. 国土交通省『国土数値情報 河川 第3.1版』「東京都」
  4. 東京都内の各河川、池沼の写真と緯度経度データ

 1~3はオープンデータである。1からは各河川の基本情報として、約2年分の観測データから水深、SS(水中の浮遊物質)*3、透明度の平均値を取得した。もちろん、最適な方法ではなかったと思っている。川は点ではなく線なので、上流、中流下流でその姿を変えるのが一般的であり、ある一地点を代表値として表現できるものではない。本当は、河口ないし合流地点を基準地点と定め、そこからの距離別の水深、SS、透明度等を取得して、線グラフで表現したかったが、そもそも各河川別に「河口ないし合流地点からの距離」というデータが入手できず、地図上で計算する方法もすぐに思いつかなかったので、いろいろ悩んだ末に、いったん今回はこれで良しとすることにした。残された課題は今後のための主題としよう。

 2からは地形データと、過去の災害履歴データを使用した。前者は地区ごと、収録データ分類ごとに複数のシェープファイルに分けて提供されているので、まずはTableau Prepで必要な全データをUnionし、次に不要なカラムの削除を行った。後者に関しては今回深く取り上げないので、関東大震災(1923年)、カスリーン台風(1947年)、狩野川台風(1958年)の3つの被害データのみを抽出して使用した。3は河川の形状を表すラインデータと、端点を表す点データの2つが含まれていたが、今回は前者のみを利用した。

 4の写真とその緯度経度データは私のオリジナルデータである。写真は学生時代から約10年かけて撮りためたものだが、困ったことに写真そのものに撮影場所データが付属されておらず、どこで撮ったかわからないものが大半だった。なので、まずは撮影場所を特定してその緯度経度データを登録するという作業が発生した。写真中に撮影場所のヒント(名前のわかる建物や橋)がある場合はよいが、そうでない場合はできる限り思い出し、どうしてもわからない場合はだいたいの場所を振り当てた。なので、写真によっては撮影場所が実際の地点と異なる場所で登録されている可能性があることをお断りしておく。また、写真とセットでカットで入れた一文は、特に明記がなければ即興で作った私の作文、出典の記載があればどこかの書籍から引用した文章である。

 データまわりで一つ注意していただきたいのが3の河川データで、これが実は一部間違って登録されている箇所がある。例えば東京の東側を流れる「中川」であるが、本来であれば高砂で「新中川」と分岐するその上流の、亀有方面も含まれるはずである。しかし、データセット上は高砂より上流までもが「新中川」と登録されてしまっている。他にも、江東区内の主要運河である小名木川、堅川、横十間川の流路が一部しか登録されていなかったり、「名称不明」とカテゴリーされた複数河川が登録されていたり、江戸川や荒川、多摩川などの大河川の流路データ(ライン)が不自然に途切れていたり、江戸川区南部の長島川など、既に暗渠化されて地表からは見ることの出来ない河川が一部存在していたりなど、色々気になる点は多かったが、今回は一切こちらで手を加えることなく、「名称不明」データのみ除外して、あとはすべて原本そのままの状態で掲載した。そのため、現存する河川だけで成立した図でもなければ、現存しない河川をすべて復元した図でもない。あえて言うなら、現存河川に一部暗渠となった旧河川を復元した、少々奇妙な河川図が出来上がった。

参考にした記事

 Tableau内で画像を表示する、それも形状のオプションとして指定するのではなく、マップ機能を活用した背景イメージとして挿入し、かつパラメータと連動させる手法については、こちらの記事*4を参考させていただいた。私がオリジナルで付け加えた点としては、地図上で選択した地点の写真を表示するというアクション機能のみである。こちらは指定のパラメータをアクションと連動させるダッシュボードアクション機能を活用している。

 また、写真とそのコメントの背景に入れたバブルチャートのようなVizは、下記の記事*5の内容を丸々活用させていただいた。今回はランダムで並べた大小の円チャートで、水の流れと水の滴を表現している(つもり)。

 背景地図はいつもことながらMapBoxで加工したが、今回は河川を強調したかったので、河川ラインの幅をデフォルトより広く、やや誇張した形で図示した。データセットどうしは1対1のリレーションで関連付けてから、マップのレイヤー機能を利用して重ね合わせ、不要なものはハイライトしないよう「Disable Selection」機能にチェックを入れた。

*1:南葛飾郡役所(1923)『南葛飾郡誌』よりp104-132参照

*2:貝塚爽平(1979=2011)『東京の自然史』講談社学術文庫よりp48-54参照

*3:東京都環境局における説明は以下の通り。「水中に浮遊して溶解しない物質の総称で、水の汚濁状況を示す重要な指標のひとつです。河川にSSが多くなると、光の透過を妨げ、自浄作用を阻害したり、魚類に悪影響を及ぼします。また、沈降堆積すると、河底の生物にも悪影響を及ぼします」。出典はこちらのHPより。2023/6/24閲覧。

www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp

*4:

blog.truestar.co.jp

*5:

www.vizwiz.com