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【Tokyo Viz Week Day8】Friday Night in Tamachi & Mita|オフィス街・学生街には大衆居酒屋あり

三田の三角廻れば四角、薩摩屋敷は七曲り*1

はじめに

「都市」は生き物であり、時間とともに多種多様な構成要素が複雑に交差し影響しあう有機体である。その中からある地区を「街」として切り出してみても、その複雑性は変わらない。そこで「街」を構成する多数の属性のうち、一つの属性にだけ着目してみよう。本プロジェクトは「飲食店」という視点から、隣接していながら全く異なる二つのある「街」の「個性」を描き出す。まず今回登場するのは都心のオフィス街、学生街として有名な田町・三田。日本有数の富裕層と、そのおこぼれにあずかろうとする輩がひったきりなしに集まる港区にありながら、ある意味港区らしくない匂いがあるこの街にはどのような「顔」があるのか。

Vizはこちらから→https://public.tableau.com/app/profile/haruna.matsumoto/viz/FridayNightinTamachiMita/Top

データとその定義について

こちらの記事を参照のこと。本文中及びVizに掲載の写真はすべて筆者の撮影によるものである。またハンバーガー店と甘味・洋菓子店についてはそれぞれ店舗が1ずつしか観測できなかったので、今回は分析対象外としている。

pigeonwing415.hatenablog.com

ターゲットエリア-東京23区の縮図-

対象エリア(Vizより転載)。色分けの凡例はVizを参照のこと

今回の調査対象は、JR田町駅西口を起点にその北側、芝2丁目~5丁目および三田2丁目~5丁目の一部にまたがる総面積0.87㎞のエリアで、東は山手線の線路、北と西は古川によって東麻布、麻布十番、南麻布、白金と隔てられ、南は東海道及びそれに沿う丘陵地帯から高輪・品川に接続する。最大の特徴は、古川の赤羽橋から第一京浜の札の辻まで、エリアのほぼ中心を三田通り(桜田通り)が南北に貫通し街を2分していることである。

三田通り東側の芝地区は高低差のない低地であり、ひとつひとつの街区が相対的に大きく、そこにNECや森永、長谷工といった大手企業のオフィスビルが林立し、その足元には大中小の事業所が密集しているほか、東京女子学園、戸板女子学園など複数の私立学校も立地しており、大通りから一歩奥に入った路地には住宅併用の商家や町工場も残る。純粋な住宅は少なく、多種多様な事務所機能と住宅が混在する商工業地帯である。とくに芝2丁目の芝商店会付近、芝3丁目のあたりは店舗併用住宅も多く、三田通り、日比谷通り、第一京浜沿道の高層ビル街の裏手にあって、中低層の併用住宅が所狭しと建ち並び、都心とは思えないほど落ち着いた、雰囲気のある下町的景観を見せている。

低地の商工業地域(左:芝3丁目付近のとある路地にて、右:第一京浜沿道の夕焼け)

一方、西側の三田地区は背後に丘陵地帯を持ち、高台にはイタリア大使館およびオーストラリア大使館、総務省の三田共用会議所、綱町三井俱楽部、そして慶応義塾グループが大面積を占有し、それらに囲まれて戸建住宅および名だたるブランドの中低層マンションが集まる、古くから知られた三田綱町の高級住宅地がある。また丘陵地帯は南方にもう一つあって、三田地蔵通り商店街の背後、聖坂から登る尾根道は高輪まで続く。こちらは江戸時代に日本橋八丁堀から集団移転してきた寺社によって開かれ、寺町としての独特な景観を今に伝えている。高台から綱坂、綱の手引き坂(日向坂)、聖坂等の坂道によってアクセスする低地は、オフィスビルや雑居ビル、高層マンションが並び、三田通りおよび地蔵通りに沿って商業施設も多い。

高台の住宅地域(左:三田共用会議所前の日向坂、右:秀和三田綱町レジデンスと綱町三井倶楽部

東京23区の都市空間をその地理的および社会的特徴を踏まえて、西方の武蔵野台地上に形成された「山の手」と、東方の沖積低地に広がる「下町」に二分するならば、上記エリアは「下町としての芝地区」と「山の手としての三田地区」をあわせもつ、まさに東京23区の縮図的な場所*2であるといえそうだ。「山の手」と「下町」が出会うのが三田通りであり、下町の川として古川が流れ、山の手の坂として綱坂、日向坂、綱の手引き坂、聖坂等の複数の坂がある。ここに田町駅東口の芝浦一帯を含めれば、東京湾に進出する埋立地をも包括することになり、山の手・下町・埋立地と、東京23区の地形的特徴をほぼすべて網羅できるだろう。

主な交通手段はJR田町駅の山手線と京浜東北線。都営浅草線三田線三田駅。付近には都営大江戸線赤羽駅都営三田線芝公園駅もあり両駅の利用も可能である。さらに三田の丘陵地帯の反対側、古川沿岸低地の地下には南北線が貫通し、南北線麻布十番駅白金高輪駅からも徒歩圏内であること付け加えておく。

4軒に1軒が居酒屋

カテゴリ別飲食店数の内訳を表示したツリーマップ。

田町・三田の飲食店のうち、4軒に1軒は酒場・ビヤホール、つまり「居酒屋」である。次に多いのが西洋料理店と同率で約9%を占めるバー・ナイトクラブ。これはお酒をメインで提供するバーや、スナック、キャバクラ、ガールズバーなど、キャストがカウンター越しあるいは隣に座って接客する遊興的飲食店が含まれる。厳密に言うとカウンター越しの場合は飲食店であり、隣に座ると「接待を伴う」と判定され風俗営業認定されるため、法律上この両者は区別されるが、利用者側からしたらいずれも食事を楽しむのではなく女の子にちやほやされるために赴くお店ということで、そして女の子の最大の売りが「色気」と「若さ」であるという点において共通点があると考えられるので(笑)、一つのカテゴリとしてグルーピングした。

中華料理と「秘密基地」。いずれも芝5丁目にて

居酒屋にせよキャバクラにせよ、大量のサラリーマン顧客を抱えるビジネス街らしい店舗構成である。金曜の夜はスーツ姿の彼ら彼女らが、次に多い学生風の若者を圧倒する勢いで街路に溢れかえって、夜が更けていくごとに喧騒の度合いを増していく。

田町・三田のNoodle Map

田町・三田のNoodle Map。赤がラーメン屋、青がそば・うどん店、灰色はその他

逆に、採集時点で何故かとても多く感じたラーメン屋やそば・うどん店が、店舗数から見るとそれぞれ10位と6位であり、低順位にとどまっていたのは意外な気がした。地図上で両業種の分布を確認すると、慶応仲通り商店街を中心に全体的に店舗が密集している地点と重なっており、そこまで分布形状に偏りがあるわけでもなさそうに見えるが、あえて言うならばラーメン屋は三田地蔵通り商店街を中心に慶応義塾大学付近にやや集中しがち、そば・うどん店はセレスティン芝三井ビルディングの裏手の芝商店会及び三田通り(桜田通り)北部の赤羽橋付近にちょっと多く、他業種と比べ比較的広範囲に分布しているのがちょっと印象的ではある。どちらかというとラーメン屋は学生利用が多く、そば・うどんは学生社会人問わず顧客が多いのだろうか。なお、ラーメン屋はすべてディナー客単価が1,500円以下であったが、そば・うどん店は客単価3,000円以上の店舗も一部含まれているなど、価格帯から見ても両者には微妙な違いがあった。

席数とディナー客単価の関係

席数とディナー客単価のクロス集計表

ディナー客単価と席数の関係からも、平均予算5,000円以下で、席数的にも団体利用可能な店舗が卓越していることがわかる。ただ客単価10,000円を超えるハイグレート店舗が一定数存在しているところが、いかにも富裕層が集まる港区の繁華街という気がする。

業種別に席数×ディナー客単価の関係を見る

業種をグループ化して席数と客単価の関係をみると、面白い傾向があらわれる。食堂・麺類・喫茶店および酒場(居酒屋)・バー(キャバクラ等の風俗営業含む)は席数が増えても価格帯があまり変わらないのに対し、日本料理店や西洋料理店、鮨などの専門飲食店は、①席数と客単価が正の相関をみせるグループの他に、②席数が少なく客単価の高いグループと、③席数が多く客単価の低いグループの二つがある。詳細はVizを確認してほしいが、日本料理店は①と②、西洋料理店は①と③、中華料理店は③のように分布する傾向にある。このことから、専門料理店では②のような典型的な高級店と、③のような低価格帯の2つが存在し、逆に専門料理店以外は概ね低価格帯の店舗が多く立地することがうかがえる。

平日のみ営業する店舗が全体の約25%を占める

営業日の分布

その他、オフィス街、学生街らしい特徴として、営業日の分布も興味深い傾向が見受けられた。全体の約25%、つまり4軒に1軒は平日のみ営業である。残りのうち約20%は日曜祝日以外の営業、年中無休は約13%であり、土曜日はともかく日曜祝日など家族や友人との会食が入りやすい日に使える店舗は全店舗の約半数しかないことがわかる。

業種別に見た営業日の分布

業種別にみてみると、そば・うどん店の約半数、喫茶店の約4割、居酒屋、定食屋、日本料理店、鮨の約3割が平日のみの営業である。逆に西洋料理店やラーメン屋、焼き肉屋などは平日のみ営業の割合が相対的に低い。この辺りからも客層の違いが想像できて楽しい。学生風はその数減ずるとは言え土日祝日もそれなりに見かけるのに対し、道行く人の大多数を占める会社員風は基本的に平日しかいない。ゆえに土日は平日に比べてずっと人出が少なく、街自体がかなり静かである。三田の高台のマンションか、それとも芝浦のタワマン街から遠征してきたのか、小学生以下の子を伴った家族連れの姿を頻繁に見かけるのも土日祝日の光景である。食堂・レストランの約半数が土日祝営業であるのも、この辺りのファミリー需要を見込んでのことだろうか。

まとめ

慶応仲通り商店街のホルモン焼肉店2景

田町・三田の飲食空間は、まず付近のオフィス勤務のサラリーマンと三田の学生のための安価で大人数でも入りやすい居酒屋やバーによって代表され、次に平日のランチ需要が大きいであろう喫茶店、食堂、そば・うどん店、ラーメン屋によって構成される。そしてその背後に見え隠れするようにして、接待や会食でも使えるやや高単価帯の西洋料理店や日本料理店が少数ながらも控えている。つまり、概ね通勤通学者向けに大衆的な装いの強い空間でありながら、下町的大衆酒場にはなりきらず、随所に山の手の繁華街らしい一面も持ち合わせているという「街の表情」が描き出された。

あとがき-三田の美学-

大衆居酒屋の赤提灯が街を紅色に染め上げる花金の夜。毛細血管のように張り巡らされた薄暗い路地を徘徊するのは背広姿のサラリーマンとオフィスカジュアルなOL。学生風の、どことなく育ちの良さそうな青年男女の姿ありといえども、圧倒的に数が多くて、声も態度も大きいのは、上司に取引先に同輩に揉まれてくたびれて愚痴のひとつやふたつも言いたい御仁。しわの寄ったワイシャツとくたくたのネクタイとうっすら油の浮いたくずれた化粧は恒例風景。かく言う私も会社員。

路地の奥にもぎっしりと呑み屋がひしめく。仲通りより

慶応仲通り商店街を軸に形成されたこの飲食空間は、新橋よりちょっとだけ若返った(学生客が一定数いるから)&お行儀の良い(比較的風俗店が少ないから)サラリーマンの呑兵衛天国というのが、私にとっての田町・三田の飲食店街のイメージである。しかし内実はもうちょい複雑で、もうひとつの側面がある。それは見た目は永き伝統を誇りつつ強固な印象でありながら、その実ガラス細工のように繊細でもろくはかない心象でもある。

三田というイメージは、古くから塾生の街として知られ、オアシスとして宴会に食事に憩いの場に、身躾み調度に健全娯楽と、商店の顧客層が殆ど塾生が対象となって繁昌したものでありました。*3

サラリーマン天国仲通り商店街の由来記では、その実、昔々から三田の学校とズブズブな関係にあったことを赤裸々に詳述する。例えば「六大学リーグ戦で、慶応が優勝色濃くなれば直ちに婦人部の応援を求めて、応援団にオムスビや甘味などを神宮球場へ運び、その労をねぎらい、街には三色旗を掲揚して、大いに優勝ムードを盛り上げてサービスこれつめたこと幾度か。その都度、塾当局より感謝状を受け、塾生の親近感も深まり、仲通り商店会の信用度とともに繁栄しつつある」*4と記し、「毎年十一月に行われる三田祭にも、物心両面の協賛サービスは、南振興会の伝統ある美学」*5と断言するのだからたいしたもの。他商店街も「商店街の発展は慶応義塾大学の邂逅とともに始まったといわれている(中略)スマートとか上品とかとともに気品の高い町といわれいわば華やかなイメージを想い起こさせる町であった」(三田通り商店街*6)、「慶応大学とともに知られ、懐かしがられた三田地区」(三田地蔵通り商店街*7)と、彼ら彼女らの心のよりどころがどこにあるのかを明言して憚らない。

三田の商店会がたのむ心のよりどころ

上記の文章自体はいずれも50年以上前に執筆されたものであるが、この慶応びいきとでもいうべき気質は現在に至るまで街の根底に(意識するしないを問わず)深く根付いている気がしなくもない。完全部外者(私は塾の回し者ではない)の個人的な感想だが、NECや森永など日本を代表する大企業が日本近代産業の黎明期にこの地に創業して今日まで営業し続け、大量の会社員(しかも学生よりはるかに金払いが良く、たぶん毎週飲食店でかなりの額を落としているはず)を抱えているのに、いずれの商店界にもたいして言及されないのが不思議というか。学生街とは一般にこのようなものなのであろうか。

それでも街は生き物であるから、刻一刻と変わっていく運命にあらがうことはできない。変化に適応できなければ衰退の憂き目は見えている。現在のオフィス街としての田町・三田も、時代の変遷とともに移ろうこの街の一時的な姿として、ある種の適応が具現化された姿として、展開されているのだろう。ただ変わり続ける世の中に反して、普遍の軸というべき存在を持つことは、ある意味で良いことである。それが地区の、街のプランニングの方向性を決める意思決定の要となりうるからだ。

夜も更けてきて、ぼちぼち店じまいの頃合いです

三田の商人は慶応の恩恵のもとに繁昌したもので、塾生の全部、否九割までが、憩いに味覚に、服飾調度と、一切他の土地では求めず、大小の宴会も三田で楽しみ、自然と商店との絆は水魚の交わりとなって(中略)想い出しても胸の透く美しい人間対人間のまごころの通い合った話の数々があったが、世の中は刻々と変わりつつある、社会状勢も変り塾生気質も一変した今日、こんな雰囲気は過ぎし夢物語となったのは、一抹の淋しさを禁じ得ない*8

過去はいくらでも美談になろう。肝心なのはこの美談に如何にして客観性を持たせ、以後のプランニング、すなわち都市計画をもってする街づくりに取り入れたかである。その成果としての今の街の姿なのか、それとも違うのか。その答えを探ることは今回の調査の範囲外である。本調査は「歴史」という視点を持たないからだ。ただ「山の手」にありながら「下町」であること。その絶妙なバランスだけは保ってほしいと思う。両者の接する境界領域、曖昧な空間にこそ活けるものがあると思っているから。

*1:港区立三田図書館所蔵の赤尾兼草『慶応仲通南振興会由来記』(慶応仲通南振興会、1968)よりp29

*2:東京都港区役所と東京商工会議所中小企業相談所港区支所による『三田通り商店街総合診断報告書』(1967、同所)にも同様の記述がみられる。「当商店街は区の中央部に突き出た丘陵の文教地区と低地の準工業地帯が境を接する下町にあって、区の西北から東に流れる古川の赤羽橋から第一京浜国道に到る札の辻まで、南北に都電にそってのびている直線商店街が主軸となっている。」(前掲書p3より)。また「三田通り商店街の周囲は、西側の丘陵地帯である文教地区に慶応義塾大学、同女子高校及び区立小中学校があり、また外国公館や病院も多くそのため当商店街全域が第二種文教地区指定を受けているのである。(改行)東側の下町準工業地帯には電気、通信、自動車などの機械器具の下請工場が群集しており、大工場が京浜工業地帯の一翼として進展してきている。」(前掲書p6より)など。同書は港区立三田図書館所蔵。

*3:赤尾(1968)前掲書よりp43参照

*4:赤尾(1968)前掲書よりp24参照

*5:赤尾(1968)前掲書よりp24参照

*6:東京都港区ほか(1967)前掲書よりp7参照

*7:東京都港区役所&東京商工会議所中小企業相談所港区支所『商店街づくりのための変化への対応策とその手順 三田地蔵通り商店街診断報告書』(同所、昭和40年前後の刊行か?)よりp14参照

*8:赤尾(1968)前掲書よりp31参照