白い鳩の歩くまま思うまま

足で稼いだ情報から、面白いデータの世界が見えてくる

【Tokyo Viz Week Day4】関東大震災100年プロジェクト|Part 1:東京市15区における被害の程度を可視化する

時事新報社(1923)『東京及横濱復興地圖』。画像は公益財団法人全国市有物件災害共済会 防災図書館所蔵より。
昭和通り靖国通り、蔵前橋通り等、東京都心を貫く主要道路は震災復興計画で実現したものばかりである。

 同じ都会の中でもこんなに町が動いていることは、東西共に変りはないようだ。これは交通機関の移動や市区の改正により、市場の変遷に伴う幾多の関係により、地価の騰貴、沿道改築費の負担、諸税の増加、その他種々な経済事情によることはもとより言うまでもないが、しかしそればかりでなしに、町には町の性格があり、生長があり、老衰があり、また復活があって、一軒二軒の力でそれをどうすることの出来ないようなところもあるかと思う。(中略)
 過ぐる年の震災が来た。その時になって見ると、この飯倉附近にある古いものが、にわかに光って見えて来た。何故かなら、ここにある古い商家の黒光りのした壁、その紺暖簾のかかった深い軒なぞは、今ではもう日本橋あたりにも見られないものであろうから。私はあの石町、大伝馬町それから橘町あたりに軒を連ね甍を並べていた、震災以前の商家の光景を忘れることの出来ないものであるだけに、一層この感が深い。
――島崎藤村(1928)「飯倉附近」『大東京繫昌記 山の手篇』(平凡社ライブラリー、1999)よりpp14-15参照

100年目の昨日

 今年、2023年は関東大震災からちょうど100年の節目。10万人を超える死傷者、東京横浜の都心部を焼き払った業火、混乱下の人心に渦巻く不安と猜疑心が生んだデマにより失われた命、ゼロからの復興と都市計画…一度でも東京の都市史を学んだことのある者にとっては避けて通れないこのテーマ。関東大震災をきっかけに、東京の町は江戸由来の市街構造を近代的都市計画のもとに一新する。都市空間の秩序と法則の上で見過ごせない大きな転換点となったこの出来事について、まとめるべきは今であると思った。なぜなら、直近企画が通った社内のTableau勉強会が、きっかり2023年9月1日の開催と決まったからで。各々好きなテーマでVizを披露して、Tableauの楽しさ面白さ奥深さを伝えるというその会にふさわしいテーマは、もはやひとつしかない。

 震災当時、東京都はまだなく、東京都の前身である東京市は15の区から成立していた。これは現在の東京23区の中心部、概ね山手線の内側と、隅田川に沿う東側を加えた範囲に該当する。一般に都心と称されるエリアだが、震災ではこの狭い面積のおよそ4割を焼失し、死者行方不明者は6万8千人(全体の死者行方不明者10万5千人の約65%)を超える甚大な被害を出した*1。今回は、東京市15区における関東大震災の影響を一連のシリーズとして可視化する。ここで紹介する第1弾は導入という意味を込めて、被害の全容をまとめ、区別の傾向を把握することに主眼を置いた。なお、関東大震災にまつわる記述一般は、内閣府中央防災会議、災害教訓の継承に関する専門調査会の編纂による『1923関東大震災 報告書』(以下、『報告書』と記載)の見解を基準とし、災害関連データは前記報告書の内容を踏まえて各種報告書から選定した。詳細は後述する。

被害の全容

https://public.tableau.com/app/profile/haruna.matsumoto/viz/OverviewGreatKANTOEarthquakePart1/Door

 震災は東京一円を均等に襲ったのではなかった。その被害の程度は地域によりかなり異なる諸相を呈した。地盤が固く密集市街地も少なかった山の手は家屋倒潰、延焼、死者行方不明者ともに抑えることが出来たが、下町あるいは川向こうの庶民的市街地ー河川の堆積した土砂の上に築かれた、水利の便こそ優れているが地盤の弱い密集市街地―は壊滅的な被害を受けた。地盤が緩く、したがって震度の大きい地域では地震発生直後に多数の家屋が倒壊し、その上に発火した火災は消し止めることもできずに延焼し、逃げる暇もなく多くの命を奪った。川向こうの本所・深川の全域、神田区西部の神保町付近および浅草区北部の新吉原付近はまさにこのような要因により被害を大きくした。一方、同じ下町でも日本橋区京橋区(現中央区)は、火災で全焼に近い被害を被っているとはいえ、家屋倒壊軒数及び死傷者数は他の下町諸区に比べ相対的に少ない。

 なお、上記マップでは死者5名以上のポイントのみ表示して、死者5名未満の地点は非掲載としている。これの理由だが、地点別私娼一覧の元データの内、全体の過半が5名未満地点であったが、新旧の地図を見比べつつ、原本では旧住所で記されたものを現在の住所に変換し、かつ緯度経度情報を付与する作業に予想外の時間がかかり、発表期日に間に合わなかったためである。

被害の「地域差」

 1ページ目で全体概要を見せた後、2ページ目では区別に深掘りしてゆく。上記3つの使用を基に被害程度とその関係を捉えるには、死亡率を横軸に、焼失率を縦軸に、倒壊率を円グラフの大きさで表現したバブルチャートで可視化するとわかりやすい。死亡率、焼失率、倒壊率いずれも高い本所区深川区。その対極にあっていずれの指標も低い=被害の少ない、麹町、赤坂、麻布等の山の手諸区。両者の中間にあって、焼失率は高いが(ほぼ全焼に近い)、死亡率は相対的に低い日本橋、京橋、神田、浅草の四区は、倒壊率の高低で2群にさらに分類できる。東京市15区の被害程度はこのように分類できるのであり、非常に地域差のある災害であったことがここからもうかがい知れるであろう。

データの出典・参考文献

 発生時期が比較的近いこともあり、関東大震災に関するデータはそれ以前の災害とは比べ物にならないほどたくさん残されている。しかし、集計当時は調査元それぞれの事情により集計方法が統一されていなかったことから、同一指標に見えて裏では定義が微妙に異なり、したがって数値がかなり異なるケースが散見される。利用の際にはどの数値を正として取り上げるべきかにつき慎重に選定する必要があるから、データの扱いに慣れた人間ならともかくも、データ初学者ないし関東大震災にさほど詳しくない人間にとっては非常にややこしく、とっつきにくさを感じる原因となってしまう。この事象については『報告書』でも詳しく取り上げられており、「全潰戸数」と「全潰棟数」の違い*2や、死者・行方不明者について複数報告の数値を比較検証したコラム*3など読みごたえのある文章が多数収録されている。データを扱う仕事をする以上、データの定義にはできるだけ厳密でありたいが、関東大震災関連データ群は、そのことをひときわ意識させられるテーマであると言えるのかもしれない。

 今回取り上げたのは、焼失率、倒壊率、死亡率の3指標と、発火地点情報を加えた4種類のデータである。死亡率と発火地点情報は、区別集計ではなく地点別の集計データを用いている。それぞれの出典はViz内に記載したとおりであるが、主に引用したのは、震災予防調査会[編]『震災予防調査会報告』収録の各種統計表である。この報告書は23年10月現在、公益財団法人全国市有物件災害共済会のWeb上で全巻閲覧可能なので、気になる人はぜひ原本に当たってみることをおすすめする。

www.city-net.or.jp

今回のチャレンジポイント

 ずばり、右上のこれ。

 現在の東京23区の区市町村境界データ(ポリゴン)に、旧東京市15区境界データ(ポリゴン)を重ね、背景を白地図に設定した上に、前者は枠線だけを残し、後者の範囲を塗りつぶしただけのシンプルなマップ。アイコンのようなものだが、こんなVizも作れるんだというささやかな発見あり。

 その他の例としては、3つの指標の関係を同時に表現するためにバブルチャートを採用したこと、ダッシュビードに複数のナビゲーションを組み込んだことである。後者は以前作成したVizでも利用したテクではあるが、①ダッシュボード間のページ遷移用のボタンとしての活用、②同一ダッシュボード上における表示シートの切り替えボタンとしての活用、の2点を採用している。どちらも比較的容易に実装できるため詳細は割愛する。

おわりに

 本Vizにおいて、東京市15区における被害の程度が、地域により異なる様相を呈したことは示すことができた。次なる関心は、それは如何にして引き起こされたのか?の部分、つまり要因分析に向けられるはずである。なぜ本所、深川の両区で甚大な被害を出してしまったのか?神田と浅草で被害が特定地域に偏ったのは何故か?日本橋京橋区の両区は全焼したのに死者数が少なったのはどうしてか?これの疑問に答えることこそ、次なるVizのテーマとなろう。

*1:内閣府中央防災会議、災害教訓の継承に関する専門調査会[編]『1923関東大震災 報告書』より

*2:上記『報告書』より「コラム 被害数の見かけ上のくい違い―住家全潰棟数と全潰戸数―」pp16-18参照

*3:上記『報告書』より「コラム 関東大震災の死者・行方不明者数」pp19-21参照