白い鳩の歩くまま思うまま

足で稼いだ情報から、面白いデータの世界が見えてくる

「近代花街の社会空間的変容」解説記事

 ひとくちに風俗街といっても、ある街区に「街」として具現化されたその姿は、ある時代、ある地域の事情に対応して、柔軟に変化している。根っこの軸は不変であるとしても、人間の飽きっぽく忘れやすい性分のせいか、表向きのサービスは常に新規色を求め、変化し続けること目まぐるしいばかり。
 本Vizは、近代東京の風俗街=花街空間に関する統計データを用いて、その社会的、空間的な変容を描き出した。そこから見えてきたことは、貸座敷、引手茶屋、娼妓から成る遊廓空間は、料理屋、待合茶屋、芸妓屋及び芸妓から成る芸者町と比べ、一貫してその発展速度が鈍かったばかりか、大正12年関東大震災を境に「遊興」的な側面を失い、売色専門の肉体サービス直売所に変化したということである。

Vizはこちら↓

https://public.tableau.com/app/profile/haruna.matsumoto/viz/_16792688519780/main

はじめに

 本Vizはすべて時系列グラフから成り立っている。同じような図柄ばかりが続くと単調になりやすいので、グラフの形状に少し変化をつけた。しかし地味にいちばんたいへんだったのが、レイアウトに正しくコンテンツを収めるということ。Tableauのお節介機能で、Workbookを編集している限りはうまくコンテンツを収めているように見える、しかしいざパブリッシュすると、あれこの巨大なスペースは何だ?グラフが大きくひしゃげている!配置がゆがんでいる等、気に障ること枚挙にいとまがない。編集画面と実際のアップロード画面が異なるのだから。特に今回のように縦長のVizでは、それぞれのコンテンツを配しているうちに、今自分が上下左右何ミリのところを編集しているのかわからなくなるからなおさら。もちろん、さいしょからきちんと各コンテンツの寸法を測った設計書を用意すればよいものだが、あいにく私はそんなに用意の良い人間ではなくして。最終的にパブリッシュしたVizを横目にWorkbookを微修正するという羽目に。

 見た目は単純、取り立てて凝った作りでもないし見栄えもさっぱりしないが、コンテナレイアウトについて考えさせられた作品になった。凡例やパラメータについても浮動ではなく固定の枠内に収めるために地味に苦労する。やりかたを知った今となってはたいしたものではないが、良い経験だった。そんなところであるから、ここではTableauのテクニックではなく、そこで使われているデータの出典とその定義について、および冒頭の説明書きだけだとわかりづらい背景知識、具体的には高級娼婦とは何か、その高級娼婦が得意とした花街の「あそび」とは何かについて、述べることにしたい。

 なお、本Viz及びこの解説記事の大元は、私が院生のころ、当時在籍していた都市工学系大学院に提出した修士論文である。その内容を抜粋して、一部は新しい資料と解釈をもってここに書き下ろしたことをあらかじめ断っておく。又本文中に称する画像データはhttps://pixabay.com/ja/から適当なものを使用させてもらった。

 

データの出典とその定義について

 

 出典は、主に戦前に警視庁から刊行されていた『警視庁統計書』である。実際に参照したのは原本ではなく、クレス出版社から1997年より3年かけて配本された復刻版であり、東京都立図書館で閲覧した。

 『警視庁統計書』が収録する期間は明治26年度から昭和20年度まで、なんと半世紀にわたる。今回対象とする風俗営業に関しては、収録時期に差はあるものの、まず地区別の娼妓芸妓の人数、営業所とその住まい(娼妓なら貸座敷と引手茶屋、芸妓なら料理屋と待合茶屋、芸妓屋)の軒数、次に年齢階級別、出身地あるいは本籍地別、営業期間(勤続年数)別の人数、加えて娼妓に関しては、貸座敷、引手茶屋、娼妓それぞれの稼ぎ高(売上)、遊客数、客の消費金額等が地区別に掲載されている。これだけでも、その営業の詳細なるデータが収集されていたことに気づく。しかもそれが約半世紀にわたって記録されているから、各年を断面で見てもよいし、時系列に沿った変遷を観察してもよい。もっと言うと、現在では法律上における風俗営業の立場あるいは個人情報の観点からして、同程度の公的データを得ることはまず不可能であるから、もはや再現できない、非常に貴重な一次資料であるともいえる。

 なぜこれほど詳細なデータが警視庁のもとにあったのか。そのヒントを当時の法制度から紐解いてみよう。まず娼妓および芸妓についての情報であるが、明治6年12月に制定された「娼妓規則」と「芸妓規則」により、以後娼妓あるいは芸妓の営業を望むものは、まず警視庁に必要事項を記した書類を提出して登録を受け、さらにその証拠として鑑札(後年では免許)を付与されねばならないと定められた。娼妓登録を例に挙げると、その提出書類には登録を受ける=娼妓になる者の本名、本籍地と現住所、生年月日、娼妓となる理由、娼妓稼業をする地区、揚代等の他に、戸主とその続柄の記載があったという*1。芸妓についてはちょっと手元に資料がないが、概ね同様の内容ではなかったかと推定される。

 さらに貸座敷に関しては、別途「貸座敷渡世規則」なる制度が適用され、これを増補したものが「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」であったが、その中で貸座敷と引手茶屋は甲乙二冊の帳簿を作成し、甲帳には揚り高つまり売上、乙帳には登楼客の住所、氏名、年齢、容貌、衣服の品類等を記録するよう指示されていた*2

 つまり、ここで集められた情報が統計書のソースであると考えられるのである。

 当時の法制度上、娼妓および芸妓とその関連産業は警視庁における厳しい監督下におかれていたが、とりわけ貸座敷、引手茶屋、娼妓は営業内容とその場所を厳密に制限され、貸座敷の異動や廃業、娼妓の外出に至るまでもいちいち監視の対象になっていた*3。一応制度上は営業地の制限があり鑑札付与を厳命されていたのは芸妓とその関連産業も同じであったが、こちらは登録の抜け漏れも多く、実際に許可されていない場所で未鑑札のもぐり芸妓が遊芸師匠の建前で違法営業する事例は後を絶たず、度々摘発されてはニュースになっていたから、娼妓およびその関連産業ほど厳密なデータとは言い難い。逆に言えば娼妓とそれを取り巻く産業についてはほぼ全数調査の結果ともいえるのであって、その品質は高いと言えるだろう。

 なお『警視庁統計書』において芸妓屋及び芸妓が集計対象となるのは明治25年以降である。芸妓周りはデータが揃うのが遅く、年齢階級別人数は大正、出身地別年齢や勤続年数別人数などは昭和以降のデータしかない。ゆえに、今回芸妓周りのデータについては、各産業の軒数及び人数、年齢階級別人数という基本的な項目のみ対象とした。また『警視庁統計書』に収録されているデータは明治20年以降(明治24年の統計書に明治20年~23年のデータあり)なので、それ以前のデータに関しては以下の通り採集した。

 

高級娼婦の世界

 近代東京という空間において、娼妓から芸妓へ、夜の社交空間における権力の座の交代劇が演じられた。権力の座というのは、「高級娼婦」の称号を持つものが君臨する地位である。古代ギリシアのヘタイラ、古代ローマのコルティザン、江戸新吉原でお職を張る花魁、現代米国のコールガール。。。どの時代、どの地域に存在した風俗営業とその集積地をとっても、娼婦のランクは一様ではなく、内部には明確なヒエラルキーが存在した。そのヒエラルキーの頂点に君臨するのが高級娼婦、からだ以外に売るもの、すなわち「芸」を持ち、それによって「あそび」の世界を演出する女である。

 高級娼婦にはいくつかの特徴がある。ブーロー(1987=1991)によればそれは以下3点にまとめることができる。①客の誰にでも身体を許すわけではなく、また身体を許すまでの過程を重視すること。②メイン業務は売春ではなく宴席を取り持つこと。③一般的に性的需要の高い年齢であることだ*4

 つまり、高級娼婦はその評判が高くなればなるほど、客と実際に性交渉をもたなくなるし、客となる男を自らの意思で選ぶ裁量を大きくする。また客にいざ身体を預ける前に、時間と金銭を要求する、すなわち長い求愛期間を設けることができ、その過程を重視する。さらに、主要業務は売春ではなく各種宴席に侍ることであり、とくに社会的地位の高い男性相手に様々な「接待テクニック」を駆使して喜ばせる。ゆえに高級娼婦と客のやり取りは、ある時代の支配的文化としての地位を築くことが多い。これが俗に言われる「あそび」の文化である。しかしあくまでも殿方の需要に応える女である以上、性的に魅力的でなければそもそもの前提が成り立たない、すなわち適度な「若さ」と「処女性」を持つものがいつの時代も最大の利益を得るのだ。

 本Vizで紹介した芸娼妓の交代劇は、まさに上記の内容を娼妓の側から見たものである。売色以外にも売るものを持っていたであろう娼妓が、売色専門に落ちてゆく。最も娼妓の仲には等級があって、最下層はいつの時代も「芸」をもつ余裕がない。ただ、たとえトップ数%であったにせよ、高級娼婦と呼ぶにふさわしい存在が存在していたのは確かであり、だからこそ近世社交の場を取り仕切るのは芸妓ではなく娼妓(その最上級の花魁)であったのだ。

 近代東京において芸妓(以下芸者)が躍進したのは、それ芸者が新しい高級娼婦としての地位を築いたからに他ならない。読者は今や我が国伝統芸能の体現者であり同時にその保持者である芸者を高級娼婦と呼ぶことに抵抗があるか。確かに現代の芸者は高級娼婦としての側面をかなり失っているし、その地位は銀座や六本木のホステスに取って代わられて久しい。加えて、明治から令和の今に至るまで、芸者は自らを娼妓(もっと言うと売色専門の売春婦)と明確に切り離してきたし、単刀直入で即物的な性の取引である売春には鋭い敵意を向けてきた*5。ただそれらの証拠は、芸者が高級娼婦でなかったことを示しているのではない。むしろ逆である。

 芸者が売春を嫌悪するのは、客と馴染みになるまでの過程を重視する花街の「あそび」の精神に逆行するからだ。一つ例を挙げてみよう。大正時代、芸者の一般化に伴い「芸」でなく「色」すなわち「売色」専売芸者の存在がクローズアップされるようになり、芸者の品位危うしという事態が勃発した。芸者側からこれに抵抗せんとする動きが多数あった*6わけであるが、そのうち新橋芸者の石井(1916)の主張を紹介したい。

 石井は、当時の花柳界の低俗化を、性欲本位であさましい「刹那主義」の流行だと痛烈に非難した。その主張を要約すると以下の通り。芸者がお客と待合入りする(男女の仲になる)ことは公然の秘密であるが、これを当然視してはばからない紳士が増え、芸者といえば直ぐ待合入りする(売春する)ものだと決めつけてかかる。これでは客に肉体を提供することを生業にする娼妓と何ら変わるところがなく、また芸者もこれしきの事で簡単に金になるならと喜んで転ぶ(=寝る)から花柳界が落ちぶれたのである。「あそび」というものは、金と時間を費やして通いつめ、「盃も酒もアッサリ飲んで」、「色気抜きに無邪気に」、「思遣りのある態度」をみせて深い情交に達することにあるのだ*7。この芸者の精神は戦後も受け継がれた。天神下の元芸者は、自らがそこに身を置いていた花街の「あそび」について次のように語った。

簡単に先行きのみえる遊びなんて、おもしろくないでしょ。時間と手間とお金をかけてなじみ、呼吸をはかってくどく。それがお座敷遊びの究極だったんですよ。

神崎宣武(1993)『盛り場の民俗史』岩波書店よりp133

 また、花街によく出入りしていた平山(1933)も、客の立場から同じようなことを述べていた。「花街」の「情事うらおもて」は、「どうにもならぬと知つてる無理が、どうにかしたいとあせる愚痴」である。芸者は安売りしてはいけない。芸者遊びというものは、「出来るときまつたものより出来るか出来ないかはつきりしないところを、ちくちくつついて見る心持」にその醍醐味がある*8。つまり「あそび」は過程そのものであるからこそ、時間と手間をかけずに安く簡便に済ませられる(少なくともそう思われている)娼妓は軽蔑されたのである。

一体、藝者買ひの眞の目的は何處にあるか、単に抑へ切れない劣情を満足させる爲めならば、即ち肉そのものを買ふのみが目的ならば、女郎があり、銘酒屋女がある。(中略)然るに世上の遊蕩児が滔々として藝者に走るものは何ぞや。是れ少なくとも藝者は表面に於て買淫を営業としてゐないからである。(中略)今日の紳士仲間に於いて「僕は昨夜女郎買ひに行つて来た」と公言する人は恐らくあるまい。併し藝者買ひに行つたと云ふ人はある。否寧ろそれを以て誇りとする人さへある。之れ全く藝者が女郎や銘酒屋女の如く、少なくとも表面には淫売の看板を掲げてゐない爲めである。(中略)然るに今若し藝者の検黴を実施して、或論者の如く、藝者として一々検黴票を所持せしむることとしたならば如何、之れ藝者をして直に女郎化し、淫売化せしむるものであつて、藝者の藝者たる最大特長を剥奪するものである。

★梅藤田玉子(1916)『惚れさせるまで』国民タイムス社「商人哲学者」鐵州生による寄稿文pp79-84

 花街の「あそび」はある種の「恋」の駆け引きだったと言える。それは、哲学者の九鬼先生にならえば「異性間の尋常ならざる交渉」であり「媚態」である*9。「媚態」を演ずるその技術をもってして、芸者は売色専門の娼妓と一線を画し、自らを高く売ることに成功した。同時に彼女らの客となりその周囲に群がる男たちも、金と時間をかけて芸者あそびに高じる自分たちを、即物的な性的欲求を満たすため娼妓買いするしかない同性に対比させてその優位性を誇示した。その男の自惚れを逆手にとって相手を篭絡すること、すなわち相手の心を自らの方に手繰り寄せること、これぞ芸者の手練手管だ*10

男の心で男の心を、たぶらかすやうなものなんですね、御存じの通り、男といふものは、自惚れより外は、何にも知らないものですから、その自惚れを根本にして、いろいろの手管、こんたんをして、自由自在に操縦するのです。(中略)大抵の男は、女には惚れないで、自分の自惚れに惚れてだらしもなく迷つて、さわぐものなんですよ。

★米田家玉子(1917)『私の奥の手』大文館よりpp106-107参照 ※著者は新橋芸者という肩書

 性懲りなく花街に繰り出す男性陣らを指して「馬鹿になるとは、曰く、鼻下を長うするの謂ひなり」と大町桂月が評したように*11、芸者の術に引っ掛かっても、それとは気づかずに、この女、おれに気があるなと得意でいる殿方こそ「天下の色男おれ一人」というお目出度や、「千枚貼りの藝者の面の皮に対抗すべく、客の面の皮も、五十枚や百枚ひん剝かれても、洒酒然たるものであります」*12という有様。日本の男性というものは、少なくともその脳内では、家庭の主婦である「産みのママ」と、ともに所帯を構える「妻たるママ」、さらに芸者やホステスや愛人が占める「外のママ」の、計三人の「ママ」がいる楽園にすんでいたらしい*13。インテリだって例外ではない。芸者こそ「三味線を持った社会学の教師」であり、現代紳士はよろしく芸者から社会で生き抜くすべを学べとすすめ、「現代の紳士に藝者が興ふる人情教育に至つては、筆艶に字豊かな文学者の畑、僕等の叙情し得るところではない」と目じりを下げる先生ここにあり*14

立派な藝を聴かせるよりも、下手な歌を客に唄はせる、客に踊らせることが出来るゲイシヤの方が尊い、そこにゲイシヤの藝術といふものがあるんだ。(中略)お客様に得意になつて唄わせる得意になつて踊らせる、それがゲイシヤの最高の藝術であると云つてもよいでせう。

★三宅孤軒(1935)『芸妓読本』全国同盟料理新聞社よりpp99-100参照。新橋芸妓学校講師、田中巖寄稿文

 もっと言うと、これは酒席における単なる男女間の駆け引きにとどまる関係性ではなくて、もっと広範囲な、人と人、企業と企業、国と国とつなぐ「社交」の場において作用した*15のである。個人や地域や国の命運を決める大事な会談の場にあって、たかが女人の色気がどれほどの効果をもたらしたのか疑問に思う方もあるだろうし、実際その通りだと思うが、当時も昔も「社交」の場に公的に参加できたのが男ばかりだったと考えれば、緩衝材なり刺激物として専門職の女性がおかれたとしても無理なからぬ話ではあるまいか。しかも未経験の素人にいきなり、お酌しろ、適度に相槌をうて、場をにごませつつも本意を失わぬ程度に笑いあそび、始終融和的な雰囲気を保てと言われても難しいだろう。水商売とは究極サービス業だと思う。嫌な客でも明るく振る舞い、好む客にはそれなりの心遣いを、何よりもその場にいる皆が一様に楽しめる環境を作り出す。とくに近世以前の家父長制と言われる時代では、現代の我々が当たり前と考えている女性の社会進出も充分でなく、女の居場所は家庭の比重が占める割合が多かったと言われる時代であるからこそ、なおさらその特異性は目立つのかもしれない。ゆえに、その主役たる高級娼婦はある地域ある時代の文化の担い手としてその名を残してきたのであろう。

藝妓の存在は、いふまでもなく『男子の慰安者』『男子の話し相手』として意義をもつてゐる。家庭における妻女は、炊事や育児のために忙殺されてゐる。我我の妻女に語ることは、生活の世帯のしんみりした話である。妻女以外に、男は異性の慰安者を要求する。そこでこの目的から、藝妓といふ存在が考へられた。藝妓と話すことは世帯の地道な話ではなく、生活の明るい世界における情操即ち藝術や、思想や、娯楽や、社交やのことである。ゆゑに藝妓は、教養のある男子の話し相手として、十分なる知識、趣味、才能を持たねばならない。すくなくとも藝妓は、男子の相手として、話題に欠けない程度の、一般的なる広い知識を持たねばならない。

★三宅孤軒(1935)『芸妓読本』全国同盟料理新聞社よりp104参照。荻原翔太郎による寄稿文

 芸者の「芸」とは何だったのか、もはや言うまでもなかろう。ただし、そこには情事(言い換えれば関係の成就)の可能性が暗黙の前提としてある。可能性のない女を、男は追いかけないからである。九鬼先生も言うように、「媚態」を成立させているのは「自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」*16である。芸者の「させそうでなかなかさせず、客をじらしながらそそってゆく」「いわゆる娼婦ではないが、まったくちがうともいいきれない。この中途半端さがもつあじわい」*17は、それだからこそ成立したのである。

*1:内務省警保局[編](1931)『公娼と私娼』pp61-62参照

*2:渡部織衛(1887)『貸座敷引手茶屋娼妓取締規則俗解』pp11-12参照

*3:警視庁警務部警務課教養係[編](1936)『警察實務教科書 第4巻 保安警察篇 其1』pp191-199参照

*4:バーン&ボニー・ブーロー[著]、香川檀ほか[訳](1991)『売春の社会史 古代オリエントから現代まで』筑摩書房 (※原書は 1987 年刊行)参照

*5:例えば、東京の新橋に匹敵する西の祇園甲部の元売上ナンバーワン芸子の峰子の言葉を借りると、「祇園甲部がほんのひとにぎりのゲストにのみ開放された花街であることは事実」だが、それが災いして「日本の伝統的な花街文化が正しく理解されず」「フジヤマ芸者」と間違えられ、「レベルの高い日本のお座敷文化、高尚な交友のしきたりなどとはかけ離れた、低俗な遊興の里という、ただ興味のみに導かれた花柳界、花街への認識」のまま「誤解」されてはたまらないと。岩崎峰子(2002)『芸妓峰子の花いくさ講談社+α文庫よりpp20-22 参照。学術方面では、東京神楽坂と新潟古町における花街まちづくりを対象とした澤村(2011)がいる。論文冒頭から「狭義の「花街」は芸を売る街のみであり、芸者・芸妓はいても娼妓はいない」と宣言、「今日でも花街に売買春のイメージを重ね、悪所と見なすエクリチュールが存在する」が「今日的な狭義の花街においては、それらは誤解」であるという。「料亭の座敷」は「日本の伝統芸能」の多くを育み、料亭じたい「日本の伝統建築の粋を凝らした結晶ともいえる空間」であり、「伝統芸能を伝統的な座敷空間で堪能し、その実演者を応援することが花街の使われ方」であると述べる。見事なまでの「伝統性」の押し売りだが、「狭義」とあえて念押ししているのが皮肉だ。似たような傾向は都市計画分野の研究では決して珍しくない。澤村明(2012)「花街の新しい試み―東京神楽坂『粋まち』と新潟『柳都振興』―」『新潟大学経済論集』92、pp201-210より

*6:京都の花柳界とまちづくりの言説を分析した竹中(2007)は、花柳界が日本の伝統文化であるとそのまま受け入れるのは正しくなく、むしろ造られたものとして見るべきで、その言説は主として遊郭などのセックス産業=「色」空間やスナックなど風俗営業との意図的な差別化によってたえず更新されていることを示した。つまり、花柳界が戦略的に「芸」と「色」を分離しようとし、その差異化によって自らのアイデンテイティを形成しているということだ(竹中聖人(2007)「花街の真正性と差異化の語り―北野上七軒と五番町をめぐって―」『Core Ethics』Vol.3 pp249-259)。「芸」における伝統性の強調と「色」の否定はこうして繰り返される。そのルーツをダルビー(1985)は、大正期の私娼街一斉取り締まりから、震災後に爆発的人気を誇ったカフェー(現在のホステスクラブ)という新たな商売敵の登場を受けて、芸者町がそれらに対抗すべく近代化=モダン化を受け入れて経営を安定化させるか否かという瀬戸際に立たされた時に、日本文化の伝統性における自らの地位を確かなものにすることによって生き延びると決めた瞬間から始まったと述べている。「大正末期から昭和初めにかけて、こうしていろいろやってみた結果、芸者が悟ったことは、当世風にしようとすれば、芸者の芸者たるゆえんのものを失いかねない、ということであった。そこでこの時期に、芸者稼業は性格の上からも社会的意味からも、非常に重大な変化をとげることになる。芸者は流行の先端から伝統の旗手へと変わっていく。そしてこの保守的な役割こそ、今日の芸者の存在にとってかけがえのないものとなるのである」(ライザ・ダルビー(1985)『GEISHA[芸者]―ライザと先斗町の女たち―』TBS ブリタニカ (※原書は 1983 年刊)よりpp301-304 参照)。芸者町における「伝統性」の強調は非常に戦略的なものである

*7:石井美代(1916)『藝者と待合』日本書院よりpp196-223 参照。さらに言うと、芸者がブームとなりその数が激増したのはVizに見るとおりであるが、今度は芸者間におけるヒエラルキーが全面化する。石井もその点意識していたらしく、新橋を「花柳界」、新興の芸者町を「三業地」ときっぱり区分し、次のように品評する。「一年増に何處も何處も、藝無し猿が殖て来ますのは、自然の勢ひでありますが、これは時代の要求なのでございます」。曰く、津の守は「ぽつちり居ますのみ」、白山や亀戸は大した景気がございませんよう、麻布に至っては「お茶を濁してゐる」等。新橋のこの気負いは戦後も大して変わらなかったらしく、岩下(2007)のインタビューに答える新橋芸妓の語りにも同様の意識が透けて見える。「三業地ねえ、一寸こう、ね、ややこしそうな響きがありますわね、(笑)何かそういう意味合いもあるんでしょうかねえ...。でも、三業地って云いますのは、料理屋、待合、芸者屋の三業でしょうから、新橋なんかもそれには違わないんでしょうけれども、まさか新橋を三業地とは呼びませんものね。(中略)...ですから、よく、まあ...失礼ですけれど、平井の三業地ですとか、麻布も三業地とか言いましたものね。ええ色々ありましたね。でも、そう云うところは、また全然違うでしょうね。」(岩下尚史(2007)『名妓の資格 細書・新橋夜咄』雄山閣よりpp182-183参照)

*8:平山蘆江(1933)『藝者繁昌記』岡倉書房よりpp54-55参照

*9:九鬼周造(1931)『「いき」の構造』岩波書店。引用は1979年刊行の岩波文庫より

*10:これは下谷芸妓玉子の談。「世間の殿方が藝者をお呼びになりますのも矢張りそれで、何をおすまし遊ばしてゐらつしやつても、つまりは女の子にチヤホヤいはれるものが嬉しいのでございまして、(中略)藝者が藝が売りものだと申しまして、清元、常磐津、その他の遊藝一切に優れてをりましても、ただそれだけでは一流の売妓になれるものではございません。結局藝者のつとめは世間の殿方のお相手なのでございますから、何でも彼でも呼んで戴いたお客様のお気に召すやうにと、工夫をして、好いて頂かなくてはなりません。これが藝者の手練手管を申すものでございます。(梅藤田玉子(1916)『惚れさせるまで』國民タイムズ社よりpp1-2参照)

*11:大町桂月(1911)『社会訓』公文書院よりpp155-157参照

*12:樋口紅陽(1921)『藝者哲學』實學館書店よりpp261-264参照

*13:山下悦子(1994)『妻が女を生きるとき 「悪妻」のすすめ』講談社よりpp39-43参照

*14:林田龜太郎(1929)『藝者の研究』潮文閣よりpp168-174参照

*15:柳田(1967)が指摘しているように、明治維新の立役者たる新興エリートたちは「酒」と「女」という手段で「社交」というものを一般化したのであるが、家庭の主婦に「社交」を任せるという手段はとらず、専らそれを外部に求めた。その結果として「社交」能力に長けた専門職の女性の需要が発生し、芸者とその関連産業の発展をみたのである。(柳田国男(1967)『明治大正史 世相篇』平凡社(東洋文庫105)よりpp184-187参照

*16:九鬼周造(1931)『「いき」の構造』岩波書店よりpp22-23※引用は1979年の岩波文庫

*17:井上章一ほか(2010)『性的なことば』講談社現代新書よりpp117-122参照