どこの都会でも、日本だけでなく、貧民窟は、イーストサイドとかイーストエンドとか云つて、市の東部にあるさうだが、本当かしら。もしもさうならどう云ふわけか。面白い現象である。
帝大セッツルメントから、染料会社の流れ込む排水で悪臭を立てて青黒く淀んでゐる運河を越すと、所謂亀戸の私娼窟があつた。この銘酒屋の町も疥癬か何かのやうに徐々に東の方へ向けてひろがりながら移つて行くのも指摘出来る。寺島町の、所謂玉の井の銘酒屋についても十何年前と較べると同じことが云へる。美人を最も集める中心地帯もその風に移動して行く。
どうして、そんなに東の方角を指すのだらう。
★武田麟太郎(1938)「東にはいつも何かがある」『世間ばなし』相模書房よりp190
Vizはこちら↓
https://public.tableau.com/app/profile/haruna.matsumoto/viz/RemakeAKASENTokyoEastSideMemory/Door
はじめに
昨年投稿したViz*1を全面的に作り直した。だからRemakeとある。作り直すのであるから、もちろんそれなりの理由がある。
情報をデータに翻訳して、それをしかるべき手段で可視化しようと考えるとき、ダッシュボードという形態で世人にその結果を提供する方法は2種類あると言われる。ひとつは中立的なデータセットをこさえ、Viwer自らデータの世界に飛び込んでデータの海を探求することを促す「探索型」。もうひとつはCreator自らの世界観を表現するために厳選したデータを表現して見るものに提示する「解説型」。私が今回選んだのは後者だ。ある産業が成立したまちを題材に、その産業が成立したことがまちにどのような景観的な特徴を与たのかについて簡単に考察したのである。
変わりゆく人とまち
街は生きている。それは絶えず変化し続ける。特に東京のような場所ではその速度が極めて速い。しかし、たとえ現前する空間が変容しようとも、そこに一度経験された出来事は容易には失せてなくならない。土地の記憶、地歴というものは、何らかの形で関与した人々の記憶の中に永遠に生き続け、それが一時でも成立した空間に痕跡を残しうるものなれば、たとえ世間から忌み嫌われる風俗営業であっても同じこと。おお、これを社会悪の巣窟として忌み嫌うか。職業に貴賎なし、等しく土地に生きそこに痕跡を残すもの、その歴史は土地に重なって、現在のまちの景観なり、産業なりに受け継がれている。それについて知るということは即ちまちを知るということだ。
このVizのもとになった私の修士研究は、20数年を過ごした東京の東側にある地元のまちが、全面的な再開発事業によって大きく様変わりすることをきっかけに始まった。変化の局面では様々の主体の思惑が交差する。皆がこのまち「らしさ」とは何かという問いを反芻していた。「らしさ」というものは複数あってよい。あるまちに住まい、あるいは通う各個人によってまちへの関わり方が異なるのであるから、当然体験される「らしさ」も異なるわけだ。ゆえに、ここに私が記すのも、ある一視点からみたまちの断面以外の何ものでもない。
今回のテーマは「赤線」*2である。「赤線」とは、戦中戦後のわずか12年足らずの間存在した国家公認の売春地帯であり、各地区のことを俗称「シマ」と呼んでいた。昭和33年、売春防止法の施行とともに「赤線」は歴史の表舞台からは姿を消したが、中には業態や業種名を変えてしぶとく生き続け、今につながる歓楽街として栄える「シマ」がある。新吉原はまさにそのまま、風俗の王様として君臨し続け、新宿二丁目は世界的にも有名なバー街、亀有や立石は地元密着のこぢんまりとした飲み屋街、スナック街になった。一方で、洲崎や亀戸のように旧跡悉く残らず、ごくごく普通の住宅街になった「シマ」もある。その運命を決めたのはいったい何であろうか。
当初のVizは東京23区全体を俯瞰する視点で作成したが、今回は少し思うところがあったので、東京の東の江東地区(江東区という意味ではない。川=隅田川より東側の地域という意味で用いている)に焦点を絞って、各「シマ」の動向にフォーカスした。これらのまちは、どのような経緯で「赤線」を受け入れ、また「赤線」があったことにより後のまちの景観や産業にどのような影響を与えたのであろうか。
なお、使用したデータは前回のVizとほとんど同じであるが、一部差し換えたり修正を加えたりしたところがある。具体的には各シマの最寄り駅のデータ(昭和20~30年代当時の交通路線に従う)を追加した他、各シマについてのコメントにも少々長いものがあったので、表示の関係上削った。
グラフとその解説
以下、いくつかのグラフについてそのポイントを解説する。
赤線マップ
前回は「シマ」の位置だけだったが、今回はレイヤーを重ねて最寄り駅のデータを追加した。当時の交通網を再現したかったので、現在と色々と違う点で少々苦労した。例えば、都電という今はなき路面電車が最寄り駅だった場合(洲崎、亀戸等)に関して、当時の駅の場所を探し出す必要があった。運良くまとめサイトを発見したので、都電各駅の緯度経度の情報は鉄道歴史地図 路線図・廃線を参考にしている。またこのグラフではないが、Tableauのいわゆる空間関数を用いて各「シマ」の最寄り駅からの距離を計算させている。
成長率グラフ
業者数(=店舗数)を横軸に、そこで働く娼婦数を縦軸にもってきて、各年度のデータをプロットした。そして年のデータをページシェルフに入れて、経年変化を動的に表現した。このページシェルフという機能、おくればせながら最近知ったTableauの機能で、ここにデータを入れるとちょっとしたアニメーションのように動的なグラフを作成できる。どこかで使えないかなと思っていたので、よい機会だった。
実をいうと、このサンキーを描きたいばっかりに、イースト東京をテーマにしたという裏話がある。東京23区の赤線は全部で13。うち、隅田川以東の「シマ」は9つ、つまり9色で収まる。サンキーは色数が多いと逆に見づらくなってしまうから、妥協の産物としてのイースト東京。ただこれでも色数としては少し多いので、各「シマ」の系譜関係に従いこれを3分類し、それぞれ同系色を配した(先ほどの成長率のグラフの配色も同じ)。まず洲崎と千住は旧遊廓、戦前は貸座敷として営業していた場所なので、「旧遊廓」というカテゴリーに。のこりは戦前の非公認私娼街、亀戸遊園地と玉の井銘酒屋街から誕生した新興勢力なので、それぞれ「亀戸系」、「玉の井系」とした。「亀戸系」は開設が古い順から立石、新小岩、亀戸(戦後)、東京パレス。「玉の井系」は同様に鳩の街、亀有、玉の井(戦後)。ちなみに個人的な覚え方は、亀戸四兄弟と玉の井三姉妹。
ヒートマップ
サンキーで表現するのは少し色数が多い場合もそうだが、表示する項目のボリュームが一定でなくてばらつきがある場合、ボリューム的に小さい項目はボリュームが大きい項目につぶされてしまう(例えば業者数の多い鳩の街と玉の井、その反対の亀有、立石を比較してみよ)。このへんはサンキーの弱点である。それを補うため、隣にクロス集計表に色を付けてヒートマップにしたものを配した。左のサンキーで全体的な傾向とフローを、右のヒートマップでその詳細を見る形式。またデフォルトで数字まで表示すると情報量が多いから、選択した項目のみハイライトで表示されるようにした。
東にはいつも何かがある(イースト東京赤線のいまむかし)
イースト東京をそのテーマに据えた時、私の頭に浮かんだのは武田麟太郎の「東にはいつも何かがある」(1938年)と、長唄「巽八景」(1839年、作曲:十世杵屋六左衛門、作詞:立川えん馬)だった。前者は、今回のVizにも登場する墨田区東向島、通称「玉の井」の、戦前の姿を描いた小説としてあまりにも有名な永井荷風著『濹東綺譚』でおなじみ木村荘八が挿絵を描いたことから知った。冒頭にその一節をひいたのはこのため。
後者は学生時代、風俗街研究の一環と称して、近世江戸の岡場所として名高い深川遊里の書籍を多数買い求め、一冊ずつ眺め読み進めていた時に文献中で紹介されていて知った。遊里における男女の交情を、土地の情景を巧みに読み込み表現した作品として名高い。長唄も常磐津もさっぱりわからないが、なぜかこの1曲だけ心に残った。唄われた八景は以下の通り。
- 永代の帰帆
- 八幡の晩鐘
- 佃の落雁
- 仲町の夜雨
- 石場の暮雪
- 新地の晴嵐
- 洲崎の秋月
- 櫓下の夕照
せっかくなので、最後に各「シマ」のあらましを、「巽八景」を伴奏に紹介してみよう。ちなみに実際の「巽八景」の舞台は文字通り深川で、現在でいうところの江東区、富岡八幡のある門前仲町を中心に、隅田川に沿うその北西部一帯である。当時も今も大小運河が街を縦横にめぐり、これを渡す小橋は多く、地域の境界をなすのもまた川であって、東京でもとりわけ水面が広いところだ。昔日の水郷情緒ここに残れりとまではいかなくとも、水の都と呼べるくらいの雰囲気はあるだろうと思う。その水運を軸に一時代の繫栄を築いた深川遊里を描いた唄を、現代(と言っても時の流れは速いものでその大半はすでに過去の遺物となっている)に咲く夜の街に重ねて、今も昔も変わらぬ遊里のならい、ここに生き続けることを記そうと思う。
水で創られた土地は、いつまで経つても水と離れることが出来ず、今日になつても、依然として『水の都』の景観を保つてゐる。
★深川区誌編纂委員会(1975=2000)[編]『江戸深川情緒の研究』有峰書店新社よりp3 ※大正15年刊行の『深川区史 下巻』の復刻版
女のいる「シマ」につきものなのは柳だが、どちらも水辺によく映える。湿っぽくてじめじめした土地は、からっと乾燥した山の手の台地とは異なる陰影を土地に刻み込むのかもしれない。
洲崎
大江戸と ならぬ昔の武蔵野の 尾花や招きよせたりし 恋と情の深川や
縁もながき永代の 帰帆はいきな送り船
洲崎がまだ根津にあった時のこと。作家の坪内逍遥は、本郷の学生時代に友人に誘われ登楼した根津遊廓の、大八幡楼の花紫という花魁を見初めた。それは激しい恋であった。花紫の雇い主である貸座敷経営者からすれば、大事な花魁が、貧乏くさいインテリ青年にぞっこん惚れてしまい、自らの稼ぎの分の投げ出して養おうとするのだから、こんな損なこともない。娼妓は男を惚れさせて男の金を巻き上げてこそ商売、それなのに自分から男に惚れた挙句貢ぐとは何事かというわけである。最終的に逍遥は、パトロンの力添えで花紫を身請けし、結婚した。結局花紫は稼ぎにならなくなってしまったので、将来有望な大学生と結婚させるという体面で、花魁を手放すことは貸座敷側からしてもいい厄介払いだったと岡崎(1988)は述べている*3。いずれにせよ、エリート大学生と花魁の熱愛及び結婚は当時ちょっとした話題になった。
これはよく知られたエピソードだが、おそらく記録に残らぬばかりで同様な事例は他にもあったのかもしれない*4。帝大側も目と鼻の先に存在する遊廓と、学業ほったらかしでいそいそ通う学生に頭を悩ましていた模様。ついには東京府及び警視庁が立ち上がり、これ以上根津での商売はご法度、営業継続したければ深川のまち外れ、埋立地の洲崎へ移転せよとの通達を下した*5。
洲崎に移転後は付近の工場に勤める工場労働者、大工や左官といった職人、深川の船頭らがメインの客層に早変わり、インテリ花街は瞬く間に庶民の遊び場になった*6。戦時中廃止され、空襲で壊滅した後、昭和20年21年2月2日に再開したときは戦前の半分の規模になっていた*7。都電が唯一の交通機関だったせいか規模の割にあまり振るわず、赤線廃止後、都電も廃止されると平凡な住宅地に変わった。今もその独特な街路構成は現存すると雖も、街並みはいたって普通の住宅商業地。これも昔は洲崎パラダイス。
「恋だよ。どうも様子がね。洲崎へ行こうか、大橋へ戻ろうか、とあすこで迷っているらしい。」
微風添えば且つ靡く、柳やさしくなお視遣って、
「ここが思案の、と唄に言うのは、もっと小橋か、狭い町さ。万年橋で、思案をするッて、舞台手間の掛った先生だねえ。」
妙な言をまた言った
「どっちかに決めてくれないかね。。。じれったいよ」
★泉鏡花『芍薬の歌』p144より
その爪弾の糸による 情に身さへ入相の きぬぎぬならぬ山鐘も
ごんとつくだの辻占に 燃る炎の篝火や
せめて恨みて玉章を 薄墨に書く雁の文字
この2つは、その前身の玉の井銘酒屋街の時代から、やたら高学歴のインテリに好かれた花街だ。前述した荷風の『濹東綺譚』の影響もあるのかもしれないが(この小説は朝日新聞に連載され一躍話題になった経緯がある)、もっというとその立地が幾分か影響しているのだろうと思う。明治から昭和にかけての隅田川はボートレースが風物詩。これの普及に一役買ったのが当時の大学生だった。まず東京帝国大学が初の学生レガッタを開催、その後向島に艇庫を設置したのがきっかけで、早稲田、慶応、一橋大、外語大、明大、日大などが競うように向島に進出した。やがて向島には、隅田川に面して各大学の艇庫が並ぶ独特の景観が出現し、一時期「艇庫村」と呼ばれた*8が、なにもこの地にやってきたのは大学生だけではない。
明治末から大正初年にかけての東京では、警視庁による非公認の売春地帯=私娼街の撲滅運動が過熱していた。当時最大規模の私娼街であった浅草公園裏手の通称「浅草十二階下」*9は当局も最も熱い視線を注いだ先で、明治45年、象潟警察署長名で7ヵ条の遵守事項(大正5年新たに3ヵ条が加わって10ヵ条に)が提示され、娼婦の新規雇入れや往来での客引き等を禁止*10された。さらに新規開業を認めず営業権は一代限で相続を認めない等の追加制裁が加わった*11から、これはたまらないとついに銘酒屋業者は浅草の地に見切りをつけ、隅田川を渡って江東の地へと逃れた。そこで手招きしたのが土地発展のために花街を誘致しようともくろむ向島の有力者たち。両者結託の元、向島秋葉神社の周辺にその名も「秋葉遊園地」なる新たな銘酒屋街が誕生した*12。
これにあっさり魅了されたのが向島のボート学生たちで、根津の悪夢再来とばかりに青くなったのは向島に艇庫を持つ各大学だ。このままではいかんと各大学名を連ねて警察と共同戦線を張り、銘酒屋街を潰しにかかった*13。秋葉遊園地はわずか一か月後には芸者町に鞍替え(今に続く向島花街の隠れた成立事情)、残党はさらに東へ追われたが、ここに東京市区改正(現代的に言うと市街地再開発事業とでも言えようか)の道路計画に引っ掛かって「強制移転」の対象となった浅草公園五区と千束界隈の銘酒屋のうち千束二丁目への移転抽選にもれた何軒かと、浅草公園六区の整備事業に伴う移転組が合流*14し、ついに向島寺島町字北玉の井に蝟集、土地発展のためと地元有力者を中心に花街設置を望む機運が高まっていたことも後押しして、ここに新しい遊園地を建設したのは大正8年頃のことであった*15。戦前の玉の井銘酒屋街ここに誕生である。折しもその5年前の大正3年、隅田川に白髭橋が架橋され、翌年にはこれを起点に四つ木方面へ伸びる大正通りが開通して、交通の便が約束されたところであった*16。
さすがに大学当局も玉の井まで監視の目を向けることはなかったとみえて、この「シマ」は向島地区の都市化に伴い、順調に成長していく。警察当局もこの「シマ」を決して公認したわけではないが、おおむね黙認していたようであり、むしろ都心の私娼街の有力な移転先としてその存続を特別に許していた節もある*18。しかしいずれにせよ、公認されざる立場であることに変わりはなく、貸座敷や三業地のように営業の保証は得られていない。警視庁のお気持ちの次第でいつ取り潰されるともしれない不安定な立場であるという状態は続いた*19。
それでもこの「シマ」はしぶとく生き続けた。特に関東大震災以降、「十二階下」から流入する業者が多く一気にその規模は膨れ上がった。そのためまちづくりが追い付かず、耕地整理も土地区画整理もなくそのまま市街化したため、幅の狭い、曲がりくねった農道由来の細道が至る所に残されて、それが遊客にわかりづらいからこの道通れますの意味で「ぬけられます」の看板掲げ、それが東京イーストサイドの迷路(ラビリンス)の奇抜な風景として荷風の小説で取り上げられ全国的に有名に。東京大空襲で壊滅するが、昭和20年7月10日にまず寺島町一丁目で鳩の街が移転再開、次いで同年8月8日に荒川放水路以東の亀有に、そして旧地では翌21年1月18日に新玉の井が再開の運びとなった*20。田園と庶民の葛飾カラーに染まった亀有はともかく、鳩の街と玉の井は相変わらずインテリご贔屓の「シマ」で、とくに鳩の街はイースト東京における最高ランク、西の新宿二丁目に匹敵するハイカラな花街として繁栄*21し、どちらかというとお値段リーズナブルで付近の工場労働者向けだった玉の井も「時折、ハキ溜に降りた鶴よろしく高級車が停り、重役級の白髭、ハゲゼントルマンが降り立つ」*22と称されたくらい、イースト東京でも別格の存在だった。赤線廃止後、この2つの「シマ」は紆余曲折ありながらも徐々に周辺の住宅街と同化してゆき、今では全く墨田区の平凡な商工業混在市街地の一画を形成している。
私たちの世代の常識でいえば、玉の井すなわち私娼の街であった。逆ないい方をすると、そこに銘酒屋街がなかったら、玉の井という町名は世上に知られることはなかったろう。いや、実をいうと、本文の中でも書いたように、旧向島区にも現墨田区にも、玉の井と名のつく町はないのである。そのあたりは昔は寺島町であり、今は東向島町である。そのくせ不思議にも「玉ノ井町会」が堂々と現存している。あまりにも天下に知れわたった玉の井という名を捨て難いのであろうか。
★大林清(1983=2017)『新装版 玉の井挽歌』青蛙房より「あとがき」
亀戸
女子の念も通し矢の 届いて今は張り弱く
いつか二人が仲町に しっぽり濡るる 夜の雨
玉の井とは反対に、インテリに好かれなかった「シマ」が亀戸だ*23。本所深川の市街に隣り合う、東京東郊の一寒村に過ぎなかった亀戸村は、明治40年代前後から水運の便を頼りに相次ぐ大中小工場の群立をもって、やがて成立する城東工業地帯の中核市街になった。そんな亀戸には、学生服のインテリよりも作業服の職工が似合う。東京のイーストエンド=江東の工場地帯をその主戦場としたプロレタリア文学者たちも、亀戸花街にさほど興味関心を持たなかったらしい。結果、それなりに名前は通っているのにも関わらず現存する情報が少ない。研究者泣かせの「シマ」である。
工業地帯化に伴い、さらなる土地の発展のために風俗営業の設置が検討されていた明治末年は、前述したように東京市内の私娼街取締りが過熱していたその渦中。ならば郊外にその移転先を用意しようと、土地の有力者層が動き出す。まず初めに天神様の居廻りに芸妓屋が出現した。明治40年前後の事である*24。そこから待合が許可されて、料理屋、待合、芸妓屋の三点揃った亀戸三業地が誕生する。三業組合は競合を避け既存営業を自衛するためと称し、新規に芸妓屋を開業する業者に対し組合へ株金金百五十円を収めることを条件に課して軍資金を集めたが、翌明治42年4月には早くも定員オーバーとなりこの規約は1年余りで満了となった。組合はぼろ儲け、「亀戸ばかりは黄金の雨が降る」*25とはよく言ったものだが、どうやらその資金の一部あるいは全部を使って開発されたらしいと私が睨んでいるのが、天神裏の旧津軽越中守下屋敷跡1万2千坪余、亀戸町3700番地。明治41年10月より埋立て翌年9月に竣工した、通称「亀戸遊園地」*26である。
「町の有志達はこの機会を利用して、天神の裏手に當る水田一萬三千坪を買収して天神社に寄付し、更に土地の繁栄策として之を遊園地として第二の浅草六區を現実にしやうと着々工事」*27した。つまり亀戸遊園地は当初から浅草六区を模範として開発された。天神様と浅草寺に見立て、園内を十字に区切る大通り、そのうち南北に流れる奥山通りと亀戸天神の裏門を接続する。ちなみにこの裏門は幕末の絵図*28にすでにその姿が見える天神西側櫻町の裏門ではない。遊園地の開発に伴い裏門はつけ変わったのである*29。さらに園内は瓦斯電燈を完備し、完成した街区はそれぞれ鶯谷、梅王町、松王町、櫻王町と命名された*30。そしてこの遊園地に亀戸最初の銘酒屋2軒が「飲食店」の建前で開業したのが明治43年*31。遊園地竣工の翌年のことであり、ここに合流したのが前述した「浅草十二階下」を追われた銘酒屋たちだった*32。大正8年前後の好景気の波はこの新興銘酒屋街にも幸いして、勢いを得た一派は遊園地を飛び出し近所の市電柳島車庫最寄り活動写真柳島館近辺に「柳島新地」を形成した*33。大正12年時点で「遊園地」に190軒、「活動写真柳島館周辺」に77軒の銘酒屋が存在したという*34。さらに関東大震災後、被災した浅草の銘酒屋が大挙して江東に転地したのをきっかけにまた拡大。ついに昭和4年時点で銘酒屋業者の組合は5つに分かれ、親友会242軒、懇話会96軒、平和会 47軒、正栄会20軒、南睦会44軒、合わせて5組合449軒の銘酒屋が営業し、同年の娼婦数は765人を数え戦前の最盛期を迎えた*35。
やがて戦況はその激しさを増した。城東の工業地帯にあった亀戸は、東京大空襲で焼失。業者は死屍累々たる亀戸の町を離れ、荒川放水路以東の立石、新小岩、小岩(東京パレス)に新天地を求めて四散した。中には古巣に戻ってきた者たちもいて、昭和20年11月15日に元の亀戸遊園地跡地で営業を再開*36。戦後もやはり工員メインの客筋で、インテリ好きしないところは相変わらず*37。赤線廃止後もしばらくは紅灯を照らしていたようだが、交通不便なこともあってすたれ、現在では住工混在市街地となっている。
天神様の御思召ではなからうが、あのゐまはりには妙な家がごたごたと密集してゐる。商店街を一歩裏へ踏み込むと怪しい嬌聲が乱れ飛ぶ。まさしく城東の迷路である。(中略)工場労働者の大部分をなす未婚者若しくは経済的結婚不能者の群れがこれらの特殊街の存在を必要としてゐるのだ。しかもさうした満たされぬ階級は次第に増加してゆく。下級サラリーマン、学生層の中にもその要求を持つ人々が多いのに徴しても明らかなことだ。
★報知新聞社経済部(1934)『大東京繁昌記』成美堂書店よりpp236-238
堅い石場の約束に 話は積もる雪の肌
とけて嬉しい胸の雲 吹き払ふたる晴嵐は しんき新地ぢゃ ないかいな
亀有は、名前こそ亀戸と似るが全く関係のない「シマ」である。ルーツも亀戸系ではなく玉の井系。東京大空襲で被災した旧玉の井銘酒屋街の業者12名が再起をかけるべく、娼婦50人ばかりを連れ、都心を背に荒川放水路を渡った先の亀有で、駅からほど近い裏通りのアパート数棟を買収して建設した新天地*38。昭和20年8月8日の開業。亀有楽天地とも。旧玉の井のボスであり、有名な「ぬけられます」の看板を考案した人物と言われる山口富三郎氏が代表を務めた*39。亀有に来てからは昔の玉の井情緒をさらりと捨てて、まっすぐ伸びる放射道路に沿って近代的洋館群が美観を競う*40。「シマ」の入り口付近に朱塗りの太鼓橋(柳橋といったらしい)を架けた*41ところは亀戸天神をほうふつとさせるが、実際に亀戸を模したものなのかは不明。毎年9月の香取神社のお祭りには、亀有の娼婦たちが地元サービスとばかりに神輿を担いだ*42とか。場所柄客筋は近所の工場に通う職工や地元葛飾の農村青年であったから、都会風のモダンボーイが来ると大いにモテたんだとか*43。
赤線廃止後、多くは旅館に転業したが、元々駅近の好立地、その後は再び飲み屋街になって、今でも風俗営業が立地する。当時の建物はもちろん現存しないが、ある意味ではイースト東京の旧赤線地帯で唯一現存する?「シマ」といってよいのかもしれない。
新小岩は通称丸健カフェー街と呼ばれた。現在の地理でいうと、新小岩駅からまっすぐ南に延びるルミエール商店街の終点、ちょうどアーケードが終わるあたり。駅から距離はあるものの、商店街の地続きでそこまで不便ではなかったようである。空襲で焼け出された亀戸遊園地の業者と、川1本挟んだ隣まちの平井三業(芸者町)の業者が組んで、新天地で一旗揚げようと荒川放水路を渡ってやってきた*44。昭和20年8月19日開業。紛らわしいが所在は江戸川区であり小松川警察署の管轄。
終戦直後は黒人兵向けの慰安所として稼働、オフリミットののちは専ら付近の若い工員相手の「シマ」となる*45。工業地帯という場所柄もあり、一時は地回り不良のたまり場となってガラが悪いと評判を下げたが、業者の必死の努力で風紀を改善、新しい固定客も開拓した*46。発足当時は業者13軒に娼婦37人*47とささやかなものであったが、順調に規模を拡大、やがて業者数・娼婦数ともに荒川放水路以東で最大の赤線に成長した。その意味で一番成功した「シマ」である*48。後述するおとなりの東京パレスと明暗がはっきり分かれた。現在は住宅と商業が混在する雑然とした市街になって、昔日の面影既になし。
錆びた調子を求めるなら、都心より遠いところほど味が深い、一般に華麗とまではゆかないが、安心して一夜の歓をつくすという情緒があります。
★中村三郎(1954-03)「実態調査 赤線青線地区総覧」『実話雑誌3月増刊号』(第9巻3号)三世社(※引用はカストリ出版による復刻版)よりp34
立石
洲崎の浦の波越さじと 誓ひしことも有明の
月の桂の 男気は 定めかねたる 秋の空
だまされたさの真実に 見おろされたる櫓下
当時の遊蕩児に、イースト東京9つの「シマ」の中で、一番地味で貧乏くさい場所はどこかと尋ねたら、おそらく真っ先に立石の名前が上がるだろう。東京大空襲で壊滅した古巣をあとに、新天地にその命運をかけた亀戸の業者8軒が、たまたま幹部の自宅があったからという理由で、娼婦30人を連れはるばる超えた荒川放水路。京成立石駅北口の目と鼻の先に建て並ぶ、「古典趣味を解するよほどの男でなければ、まずきたない家だと思う」長屋数軒を買収して、開業したのが昭和20年6月6日のこと。大空襲で壊滅した新吉原(同年6月13日再開)や鳩の街(同年6月19日再開)よりも早いのはもとより、イースト東京の中でも先陣切って開業にこぎつけたところまではよかったものの、時間と金をかけて(少なくとも外観だけは)美しく整備された他の「シマ」と異なり、極小長屋を無理に改造、増築を重ねたせいで、まるでその雰囲気は「場末の古い木賃宿」*49。よく言えば「安直さと親しめる何物かの魅力」*50があるということ。「立石は京成電車という沿線生活共同体の春期発動機関である」*51。
そんなところだからお値段もひときわリーズナブル。イースト東京中、いや東京の赤線中最安クラス。他のシマが宿泊最低1000円はとるところ、ここ立石だけきっかり700円。しかも実際はもっと安く、500円くらいから泊まれたとか*52。当然美人もインテリ女もダンサー上りのアーティスト勢も置いていない。それでも「美人よりサービスを期待して捨て難い味」があったそうで、コアなファンはいたらしい*53。業者側もあんまり背伸びしなかったということもあり、成長もしないが目立った衰退もしない。同じ亀戸四兄弟でも、後述する東京パレスのように散々あがいた末に転落するようなこともなく、新小岩のように手堅く商売して徐々に勢力拡大するわけでもなく、あえて言うなら欲張らなかったという感じか。イースト東京の隅っこにちんまり存在し続け、赤線廃止後は揃って飲み屋街に転向した。
赤線廃止から70年以上の歳月が流れ、他の「シマ」が跡形もなく消え去っていくなか、この「シマ」はしぶとく残り続けた。大学院生の頃、風俗街を調べているのならぜひ来てみなよと、立石が行きつけだという知人が案内を買ってでて、中に入ったのは一度だけ。通路は狭く、両側から建物が半ば傾くように寄せてきて、昼間であるというのにかなり暗い。おまけに変な色の照明がついていた。突き当り左に折れたところで、目の前にぬっと現れた大きな看板に、黒く太い字で呑んべえ横丁と書いてあるのを見た時は一瞬ヒヤッとした。「立石四十一軒のシマの入口にやせこけた柳をうえて、風流めかしく「柳通り」と命名しているが、化粧の女がションボリ立っていて、むしろ幽霊屋敷の景物にふさわしい」*54と評されたというのもわかる気がした。それでもここ10年ばかり、よそから訪れる人がぐんと増えて、曜日によっては行列ができる盛況だから、すっかり酒場の観光地化だねと案内人。それまでは地元の年配者と飲み歩きの通くらいしか見向きもしなかったものが、それも土地の若い衆はこんなところで呑むより都心に出てしまうから、まちというものはつくづくよそ者にこそ発見されるものなのかもしれないと。そこに集う人が変わるとまちも変わるのかもしれない。
もとより都市の盛り場には地縁的要素が欠落している、と考えるのは短絡にすぎる。
というよりも、間違いではないか。都市の盛り場にも、地縁的社会が育つ―。それは、稀なことであるが、不思議なことではない。
★神崎宣武(1987)『盛り場のフォークロア』河出書房新社よりp194
東京パレス
疑ひ晴れし夕化粧 目元に照らす紅の花 幾世契らん諸白髪
浮名たつみの八景と その一と節を立川の 流れを筆に残しける
東京パレスと聞くとどこのことかと思うが、小岩である。
場所は千葉街道二枚橋交差点の正面。最寄りである総武線小岩駅からフラワーロード商店街を南下、千葉街道に出たところで右折、そこからさらに数百メートル歩いた先。今も昔も小岩の町はずれに立ち並ぶ団地めいたアパート群、そこにかつてイースト東京中最も奇抜な趣向をもち、それゆえ数奇な運命に翻弄された「シマ」、東京パレスが存在していた。
この「シマ」は他の亀戸系の兄弟分とは異なり、その開業に際して周到な計画性をうかがわせるところに特徴がある。戦時中は精工舎の女子寮であった5棟の建物*55を、まず原田源之助という人物が5千坪の土地付きで買収し、次に亀戸遊園地の業者約100名により、原田を社長とする組合を組織、各業者がそれぞれ 3人から4人の女を連れて入ったのが始まりとされる。昭和20年10月10日には同所に事務所を置き、同年11月28日「進駐軍慰安用デパート式娯楽施設」として華々しく開業*56。食堂やダンスホールにプールまであって、さらに各棟をつなぐ廊下には様々な飲食店や小売店が軒を連ねるという賑やかさ*57。そしてここの女は娼婦ではなくダンサーを名乗る。ジャズバンドの演奏に合わせて踊りながら相手を選ぶしくみである。「東京パレスはダンスで品定め」*58。「ステップを踏みながら女の耳もとで値段の交渉をするなど赤線と違った味わいのあるものである」*59。交渉が成立すればダンサーの自室に引き上げて、あとは他の「シマ」と同じである。この斬新なアイディアは当時の警視総監、坂信弥が生み出したものだと言われる*60。
東京パレスは価格設定もぶっとんでいた。当時、近隣の亀有や新小岩の相場が時間5円以内、泊り15円以内だったというのに比べ、東京パレスでは邦人時間10円、宿泊40円。外人時間30円、宿泊120円という設定だった*61。これは、亀有や新小岩が産業兵士慰安のため、つまり工場労働者をターゲットとしていたのに対し、進駐軍向けを意識して作られた東京パレスはそもそもの客層が違うことに起因するのであろう。ともかく東京パレスは外国人の記録にもたびたび顔を出す。ジャーナリストのマーク・ゲインは、その著書『ニッポン日記』の中で「世界最大の妓楼以上のもの」*62と評し、労働基準法などの制定に携わったGHQの職員セオドア・コーエンも、自著の中で東京パレスの一風変わった風習について次のように記録している。「ここは一種のべルトコンベア方式で営業されたので、戦時中フォード社が建てた巨大な爆撃機製造工場の名前をとってウィロー・ランとも呼ばれた。ここに入った兵士や水兵は入口で日本式に靴を脱ぐが、事をすませたあと、長い兵舎のような建物の端にある出口で、ピカピカに磨かれた自分の靴をはくという仕組みになっていた」*63。ちなみに東京パレスの外国人向け名称は「インターナショナルパレス(通称IP)」であった。
開業当時、小松川警察署に提出された書類*64によると、敷地4,252坪、建物は二階建て5棟で総面積1,700 坪余り、慰安稼業室は260室、想定娼婦数2,000名という大所帯。計画段階では、まぎれもなく都内の赤線中最大規模である。戦前戦後と東京の性風俗を牽引した新吉原は空襲で壊滅し、同年11月末時点でもまだ娼妓42名で細々営業していた*65という時に、小岩の片田舎で2,000名もの娼婦を蓄える一大妓楼の建設が計画されていたということ自体が驚きであるが、そこに亀戸業者の並々ならぬ執念を感じないでもない。長らく公認されざる花街であった亀戸は、つねに公的遊廓であり国家の庇護を受ける新吉原に抑えられ、いつ摘発されるかわからないぎりぎりの綱渡り、つね警視庁の顔色を窺って商売してきた。だからこそ、戦後のどさくさに紛れて、ライバル新吉原が弱体化しているこの好機、東京花街の勢力転換を図ろうとした、そんな風に思えるのである。
しかし、鳴り物入りで登場した東京パレスであったが、盛況だったのは進駐軍専用時代だけで、邦人向けに解放*66されてからはさっぱり振るわなかった。開業当初は業者数100を超え娼妓数も200名を下らなかったという*67が、はじめて公的統計に表れる昭和23年の時点で、当初の勢いすでになく、業者数は100を切り、娼婦数も100名と少しばかり。上から数えるより下から数えたほうが早いくらいで、以後は業者数、娼婦数とも伸び悩んだ。何とか起死回生をと業者も奮闘。錦糸町にある「Pストリップ劇場」とタイアップして早朝200名に限りダンスホール無料入場券を配布*68。さらに4月は「桜祭り」、10月は運動会、創立記念日にはダンサーたちが振袖姿でその名も「パレス音頭」を踊り、クリスマスは100坪の大ホールと大運動場を無料公開して「一大祭典」を開催するなど、スペシャルなイベントを通年企画*69。奇抜な趣向が多いから文化人が見学に来る*70。坂口安吾の『田園ハレム』で世人に知れ渡り*71、あの荷風も市川から足しげく通い、江戸川区長も呼ばれて祝辞を述べた*72というが、かつての栄華を取り戻すことはついにできなかった。規模を取っても成長率の悪さを取っても、イースト東京中最もぱっとしない立石と同程度、下手すりゃそれすら下回る年もある。ただ価格は下げなかったから、そこでなんとか顔をつなぐ。とはいえ堕ちるところまで堕ちたのだ。
全国の赤線を取材したルポライターである渡辺寛は「赤線漫談」(1954-05)の中で、「戦後逸早く進駐軍慰安用インターナショナルパレスとしてお目見えしたのが日本人にお下げ渡しと相成った。その当時は鼻持のならないキザな場所であったが最近は地の利が非常に悪いのが幸いして東京ではめずらしく牧歌的遊郭と相成った」*73とその消息を記している。
つまり、ダンスホールもジャズバンドも、ダンサーとの自由恋愛も、当時のイースト東京には似つかわしくない代物だったいうことである。ちょっと背伸びしすぎたこの「シマ」の生命は短かった。赤線廃止後は転業じたいが少なく、非商業系に転向するか事業を畳んで転出するかが多数を占めた。亀戸四兄弟中もっとも後に誕生し、もっとも早く消滅した「シマ」、亀戸業者が見たつかの間の夢、それが東京パレスであった。
付け加えると、東京パレスの消滅とともに、小岩のまちから紅灯の輝きが全て消えるということはなかった。総武線小岩駅の周辺に新しく生まれた(その成立背景もなかなか興味深いものであるがスペースに余裕がないので今回は省略する)歓楽街が再び夜の享楽空間を演出し、良くも悪くも経済の隠れた一要素として、まちの発展を支えてきた。小岩駅周辺の再開発事業は古く昭和40年代まで遡る。すなわちこのまちは、半世紀以上の年月をかけて少しずつそれらを取り込みつつも浄化?してきたわけであるが、その最後の灯がこの度の再開発で消えようとしている。つまり、風俗営業がけん引してきたまちの、一つの歴史が終わろうとしているのだ。この節目の時に、ひと時代のできごとを取りまとめ後世の誰かのために残しておこうと、ここに描くイースト東京の風俗地図。古いものが地歴の層に埋もれたあと、その上に展開される新しい景観は、いったいどんなものであろうか。
小岩銀座は柳が招く 行こうかシネマに
いつそひとりで、ニューメトロ
ソレコノ字小岩はコラサノサ おぼこ育ちの戀の街
★「小岩文化新聞」(昭和21年12月15日発行第8号)掲載の「小岩銀座通り商店会の広告」より