白い鳩の歩くまま思うまま

足で稼いだ情報から、面白いデータの世界が見えてくる

【Tokyo Viz Week Day1】池袋西口ラブホテルガイド

数多いラブホテルがひしめく池袋1丁目の中でもひときわ異彩を放つラブホテル(ホテルバーキン
  • はじめに
  • 歴史(抄)
  • データについて
  • ラブホテルの定義
  • 今回のチャレンジポイント
  • むすびにかえて

はじめに

 今月は勝手にTableau集中トレーニング月間!1週間に最低3つのVizとその解説記事を作成することをノルマとする。お題は「東京」に関するものであればなんでも良し。本日はその第一弾、1年ほど前に作成した池袋西口のラブホテル街のVizをリメイクしてUPした。データは昨年(2022年)に取集したものなので、2023年現在の店舗立地や価格帯とは少々状況が異なる可能性も、変化の速いこの業界ならではじゅうぶんあり得るが、それはさておき。

続きを読む

Landscape with River

江戸川、金町浄水所の第二取水塔。とんがり帽子の取水塔としてちょっぴり有名。葛飾区金町にて

もし今日の東京に果たして都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素をば樹木と水流に俟つものと断言する。山の手を蔽う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である。
永井荷風(1986)『荷風随筆集(上)』より「日和下駄」p23

Vizはこちら

https://public.tableau.com/app/profile/haruna.matsumoto/viz/LandscapewithRiver/RiverMap

川という思い出

 身近なところから興味の対象を見つけ、それを様々な角度から深掘りして一つの記述を成す。「記述」というのは表現様式であり、成果物は文章であったり、グラフや写真であったり、見よう見まねの統計的解釈であったりするが、いずれにせよ私の好奇心を身の回りの世界に投影して、そこで観察された数々の現象を「データ」により可視化することを記述と呼んでいる。それを人生のライフワークにしようと思うきっかけとなったのは、「川」にまつわる、あるささやかな「発見」だった。

川を渡る電車(左:隅田川総武線、右:江戸川と京成本線

 大学4年間、東京の東側の実家から、総武線と中央線を乗り継いで多摩地域の大学へ通学していた。片道1時間45分!の行程、電車に揺られる時間がその大半であって、ぼんやり車窓からの眺めを見て暇をつぶす、そんなある時ふと気がついた。中央線の車内は、総武線と比べてずいぶん静かであると。総武線に乗っているときはとにかくガタンゴトンと大きな音がして、よく車内が揺れた。それは鉄橋を通過するときの音と振動であり、それが絶え間ないのは鉄橋を渡る回数が多い=川が多いからであると。

 都心から総武線に乗って千葉方面を目指すと、ひと駅ごとに川を渡る。まず浅草橋と両国の間で隅田川、両国と錦糸町の間に大横川(親水公園になっている部分もある)、錦糸町と亀戸の間に横十間川、亀戸と平井の間に旧中川、平井と新小岩の間に荒川(放水路)と中川(放水路)、新小岩と小岩の間に新中川(放水路)、そして小岩と市川の間に江戸川。いくつもの河川、それらの由来をたどれば、関東山地に端を発して流域を潤す自然由来の河川あり、舟運を支えた運河あり、治水を目的として開削された放水路あり、田畑に水を供給するために開かれた農業用水路あり、言うなれば東京東郊を貫流する河川の集大成。

河川空間再生の例
左上:一之江境川親水公園、右上:旧中川、左下:小松川境川親水公園、右下:小名木川の親水テラス

 東京はその東、隅田川、江戸川の2大河川が東西を隔て、その間を中小河川が縦横にめぐる。南は湾岸の高層マンション群の起立をまたいで東京湾に臨み、北はそのまま埼玉の低地に接続している。平坦な大地は変化に乏しく、上手も下手も大した高低差はないが、川に沿った堤防の上に立つと、低い灰色の家並みが目の前にぱっと開けて、空を映し出す広い川面を眼下に、ぐるり四方を見渡せば、臨海の高層マンション群から、市川国府台の大学あたり、さらに都心のビル街まで一望できるのだ。

 また、地域の古い地図を開けば、現在は川としての形態をとどめてはいないけれど、少し道幅の広い道路に、あるいは親水公園や親水緑道に姿を変えた、旧河川の姿を数多く見つけることができる。旧河道を見分けるポイントは?道がやたら蛇行を繰り返していたり、1本の太い幹線がまっすぐ伸びていて、そこから土地の傾斜の方向に沿って細い道がいくつも枝分かれしていたり。実際に町を歩くときも、地図の上で想像を膨らませているときも思う、これも昔はみな川だったのだろうと。

中川とその放水路(左:奥戸付近の中川、右:新中川の松本橋)

 私の実家の目と鼻の先にも川があった。よく整備された堤防下の原っぱにはシロツメクサが群生して、四つ葉のクローバーを見つけたこともあった。一時期、川辺のフェンスの外にシナガチョウが数羽、放し飼いかそれとも捨てられたか、いつも小さな群れをつくっていて、地元の子どもたちが追いかけるそぶりを見せると、良く響く渡るラッパ音で鳴き、大きな尻を振ってよたよた逃げていった。川の水は快晴の日も大雨の後も、いつもどんよりと灰茶色に濁っていたけれど、ある種の魚は捕れるようで、帽子に折りたたみ椅子を携帯した釣り人の姿は定番の光景だったし、堤防の上を歩きながら、じっと横目で川のほうを眺めていると、たまに大きな魚が水面を突き破ってざぶんと身を翻すこともあった。

堤防と護岸

山の手の川(左:目白台下の神田川、右:善福寺川とその緑道)
下町の川(左:葛飾四ツ木付近の綾瀬川、右:江戸川区篠崎付近の江戸川とその河川敷)

 ある程度大きな川にはみな堤防があったから、川に近づくためにはまず堤防を越えなければならない。堤防は大半が人工的な盛り土だが、その周囲には自然堤防の名残か、ちょっとした高低差のある坂道もあった。いずれせよ川への道は上り坂である。また高低差のない平らな大地では、堤防に上に立つことが広い眺望を得る数少ない、かつ身近な手段である。しかし、それが台地を流れる山の手・武蔵野の川になると、治水目的で本来よりも数メートル深く掘り下げられた河床は沿岸の地面よりずいぶんと低い。まるで谷底を流れているようだ。

 台地上の河川の中には、川へ至る道が傾斜のついた下り坂であることが往々にしてある。例えば、国分寺駅の南側の切り立った急坂(東京に大雪が降った翌日、通学途中ここを通る際、地面に厚く固まった氷に足を取られ危うく滑り落ちかかり、ヒヤッとした思い出がある)の下を流れる野川。目白台から南向きにすとんと落ちる崖下の神田川。三田綱町の丘と川沿いの低地をつないで斜めに架かった麻布二の橋下の古川。山の手の川は低地を流れるから、その両側は必然的に川沿いの土地よりも高くなる。そして周囲よりも頭一つ抜けた高台の地は、古くから特権階級、富裕な市民の所有地として彼ら彼女らの邸宅が並んだ。それは庭付きの戸建て住宅が低層マンションになっても変わらない。山の手の高級住宅地は高層の台地にあって眼下に川を臨むのだ。

浅く澄む、深く濁る

国分寺崖線と湧水群(左:お鷹の道、右:東京経済大学構内の新次郎池)
野川の風景(左:武蔵野公園、右:野川公園

 山の手の川と下町の川では、水量にも大きな違いがある。前述したように、国分寺駅を降りて大学に向かう道の途中に大きな坂があった。国分寺崖線である。その崖下の至る所で水が湧き、それが集まって小川を形成していた。台地上には湧水池に源を持つ河川もいくつかあって、このように崖線の等高線に沿って分布している。水は透明で、濁りはほとんどない。散った桜の花びらがくるくる回りながら、時には底から背を伸ばした水草に絡まりながら、流れていた。崖下の川は、普段はちろちろとうっすら水が流れる程度で、指先を浸すくらいの深さしかないが、まとまった降雨の後は水量が2倍3倍と膨らんで、水も灰色に濁り、まるで別の川かと見違えるほどその姿を変える。

 一方、これが東側の市街を流れる川になると、常に川底が見えないくらい満々の水をたたえて、たぷたぷと上下に小波をたてながら流れ下るのである。海岸に近いところでは塩水が入ってくる。湿気の多い日の夕方など、海からだいぶ離れた私の住む町でも、べたべたした潮の香りがした。そして、水深があり川幅も広いので、釣り船、屋形船、ヨット、観光船等、多種多様な船が浮かんでいる。その水は、どの川であっても、いくら広い川面に空の色を映しているとはいえ、灰茶色に濁ってきれいではない。もっとも親水空間として整備された旧中川等は、江戸川や隅田川とくらべて透明度が高いけれど、それでも武蔵野台地の湧水群にはかなわない。

江東の2大河川(左:今井あたりの江戸川、右:厩橋の川下から望む隅田川

さす潮、ひく潮に漂ってくるのが、河岸ふちなどを通っていると、どこからともなく、甘酸っぱい、なまぐさいような、もののにおいに、ふと、包まれることがある。土地の人はこれを磯くさいというが、直に海草の散らばった浜辺で嗅ぐものより、当たりがやわらかい。後に山の手に住んでからでも、私はよく歌舞伎座の二階、東さじき裏の廊下で、忍びよるこのかおりにふれて、望郷の思いに耽ったことがしばしばある。
鏑木清方[著]、山田肇[編](1989)『随筆集 明治の東京』より「失われた築地川」p102

今に残れる深川の運河。左:仙台堀川、右:大島川西支川

見渡す、平久橋、時雨橋、二筋、三筋、流れを合わせて、濤々たる水面を、幾艘、幾流、左右から寄せ合うて、五十伝馬船、百伝馬船、達磨、高瀬、埃船、泥船、釣船も遠く浮く。就中、筏は馳る。汐は瀬を造って、水脚を千筋の綱に、さらさらと音するばかり、装入(もりい)るる如く川筋を上るのである。さし上がる水は潔い。
泉鏡花(1928=1976)「深川浅景」『大東京繁昌記 下町篇』よりp74

 つまり、東京の東西の川のある光景に見られる差異は、一つの川の上流と下流に代表されるように、その海からの距離が異なること、さらに地形的な要因が根底にありつつ、そこに利水や治水といった人工の力が加わって成立しているようである。

 

地勢の差異に人工を加えて

国分寺の黒鐘公園(左)と練馬の石神井池(右)。池の周りの高級住宅地は俗称「練馬のビバリーヒルズ」
国分寺崖線に沿う住宅地には田園の気分が残る。小金井(左)、国分寺(右)

 東京の東と西では川の風景が違う、という小さな気付きから、いろいろな差異が目に付くようになった。次に目を引いたのは植生である。当時、樹木の葉っぱを見て樹種を識別するという演習をとっていた。これが結構面白く、復習も兼ねて、家の周りと大学の周りで対象の樹種がどれくらい観察されるのか調べてみた。大学の周辺では授業で出てきた樹種のうち7割くらいを見つけることが出来たが、地元周りでは3割程度の種しか見つけられなかった。しかも、生えている木の感じが微妙に違うような気がした。府中の大学あたりから中央線に沿った地域では、公園や神社の境内のみならず、ちょっとした古いお家の庭や、街道沿いの街路樹にまで、幹の太い、枝ぶりの立派ながっしりとした大きな木というものが、ごくごく一般的に見られたのに対し、東側の低地では生えている木がなんだかひょろひょろして、特に街路樹など典型的だが、あんまり大きな木がない。旧家の屋敷林や社寺境内の御神木を探してようやく似たような樹木を見つける、あるいは江戸川に沿った篠崎小岩から金町水元方面を歩くとそれらしい木々がまとまって生えた光景を見る。いずれにせよ、「樹木」というカテゴリーでは、どうも東京の東側には見るべきものがあまりないように思えた。

葛飾という田舎(左:金町の葛西神社、右:水元の畑と屋敷林)
江戸川に沿う東小岩から二景。この辺りは比較的土地が高く、旧家の屋敷林も見事なものが多い

 それは主として地勢が異なるからだ。東京は「下町」「山の手」という2つの地域に分けて語られることが多いが、それは地勢上の特徴を踏まえた呼称である。「下町」は関東平野を流下するいくつもの河川が運んだ土砂が堆積していつしか陸地となった場所を起点に、海に近いところは浅瀬を人工的に埋立てて陸地を拡大した、平坦で高低差がほとんどない低地。地下水位が高く、縦横にめぐる大小河川に、あちこちに散在する池沼の類。全体的に湿っぽい土地柄であるからいきおい湿気に強い植生が優位である。今を遡ること約100年前の大正時代の史実をここにあげよう。隅田川を境にその東、現在の墨田区江東区の一部および葛飾区と江戸川区全域の、大正末期における風土、土地の成り立ちから現代社会生活まで幅広く記録した総合地誌『南葛飾郡誌』の「自然的環境―植生」の章によれば、樹木であればハンノキ、トネリコ、エノキ、ヤナギの類、水田や池沼には多種多様な水草が見られたという。一般に草本は多湿を嫌うから、「水と陸との中間にある様な」この低湿地に見られる樹種は非常に限定的であったとする*1

大学のキャンパスに感じる四季。早春の景(左)、晩秋の景(右)。いずれも東京農工大学府中キャンパス

 対する「山の手」、その西方に広く深く、所謂「武蔵野」の景観をなす地域の地形は複雑だ。地球の寒暖差に伴う海進・海退の繰り返しの中で陸化した海底平野の上に火山灰が厚く積もり、地表に降った雨を地中深くに浸透させてしまう、平常時は水に乏しい土地高燥な台地を生み出す一方、その台地を削って流れ下る中小河川の作り出す低地は湿潤で水に富む。山の手台地は井の頭池を水源とする神田川の南北で2分される。北の武蔵野台地は概ね東西に流下する石神井川その他の河川により土地の高低に沿って浸食され、まとまりのある台地面を形成しているが、それより南側の目黒川、多摩川によって浸食される下末吉台地は、前者より数メートル標高が高く、かつ鹿の角のように複雑に谷が入り組んで、非常に起伏に富む地形となっている*2。以前住んでいた池袋では周囲にこれといった坂もなかったが、現在住まう麻布、三田、高輪界隈を歩いていると、一つ坂を下るとまた次の坂というように連続して坂に出くわすものだから、なんと坂の多いまちかと思っていたが、ちゃんとした地勢上の裏付けがあったのだ。

水郷の美、林の美(左:水元公園の小合溜井、右:浅間山公園)
東西に見る晩秋の景(左:再び国分寺お鷹の道、右:荒川河口、葛西橋にて)

西郊の特色が丘陵、雑木林、霜、風の音、日影、氷などであるのに引かへて、東郊は、蘆荻、帆影、川に臨んだ堤、櫻、平蕪などであるのは面白い。これだけでも地形が夥しく變つてゐることを思はなければならない。林の美、若葉の美などは、東郊は到底西郊に比すべくもない。その代わりに、水郷の美、沼澤の美は西郊には見ることの出来ないものである。
田山花袋(1923)『花袋紀行集 第二輯』より「東京の郊外」p22

 

水の災い

 東京はその東西に対照的な郊外を持っていた。それは元々の地勢に由来し、それをベースとしつつ後から加えられた人工的な環境改変によって、一方は水田稲作地帯となり、また一方は畑作農業地帯となって、川と湿地の田園、樹木と丘陵の田園と、それぞれの地方色を形成した。そこで得られた特色はその土地固有の「風土」となって、農村が都市の一部となっても、未だに機能し続けている。

山の手と下町(左:杉並区阿佐ヶ谷付近、右:墨田区墨田、東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅付近)

 水に恵まれた低地は、平坦で広大な土地を近代工業地帯に転換させ、昭和の初めには周辺の農村を飲み込んで大中小の工場とそれを取り巻く商家、住宅(商工業併用住宅も多い)に代表される近代的「下町」を成立させたが、高度経済成長期後の工場の地方移転、海外移転によって工場の多くは姿を消し、生じた空隙は団地、高層マンションと変じて、工業を軸として成立した地域社会に大きな転換が訪れた。うまく時流をつかんで乗り換えるまち、流れに乗り遅れて停滞するまちとその模様は様々だが、その成立地盤は変わらない。水に恵まれるということは同時に水のもたらす災いを受けやすいということだ。多くの川や池沼が埋立てられ、放水路を新しく開削し、地面はしっかり舗装されても、元々の土地の性質は変えられない。むしろ、大雨の際に一時的に水を受け止めてくれる田んぼや池沼や用水路が減じたせいで、降雨がストレートに下水に集まりやすくなり、浸水のリスクを上げた可能性もある。さらに、工業地帯化によって大量の地下水をくみ上げたせいで広範囲にわたる地盤沈下が発生、その爪痕は深く、とくに荒川の両側は、東京湾の干潮時の海水面よりも低い土地、通称海抜ゼロメートル地帯が広がっている。堤防がなければ、これらのまちはたちまち海底に沈むだろう。満潮面よりも低い土地を合わせれば江東五区の大部分にわたる。ここには200万を超える区民の生活がある。わずか100年に満たない工業化の歴史は、確かに時代の要請に答え、土地を潤沢な資本で潤し、都市形成の核となったことであろう。しかしそれがために払った代償はあまりにも大きいと言えるのではないだろうか。

海抜ゼロメートル地帯を流れる川(左:江戸川区小松川付近の荒川、右:江戸川区松江付近の中川)

 一方、武蔵野の台地は官公庁街として、閑静な住宅地として、清浄な空気と水を求める別荘地として、近代的「山の手」を誕生させたが、こちらも戦後は華族解体、財閥解体、あるいは相続税が払えないといった問題で、広大な屋敷町は解体し、ミニ開発が各地で進行、限られた一部地域に戦前の山の手の雰囲気を残しつつ、新宿、渋谷、池袋のような巨大繁華街を成立させ、住宅街だけではなく、商業的な意味でも東京の中心になった。現在東京にある富、それは金銭的な意味でも、情報の多さという意味でも、ひとや暮らしの多様性という意味でも、その多くを「山の手」が握っていると言えるだろう。その開発は高台のみならず、谷底の低地までも覆いつくした。アスファルトで固められた地面は雨水の浸透を妨げるから、そのまま水は下水に集まり、下水から河川へと直結する。ゆえに少しの大雨でたちまち下水は溢れ、川に押し寄せた水はその排水能力を超えて氾濫し、たびたび川沿いの低地の住宅商業地を浸水させるのである。

 土地の持つ性質というものはそう簡単には改変できない。だからこそ、その土地固有の地勢、由来に配慮した利用なり、開発なりが必要であろう。自然に抗い自然を改変しても、最後に痛い目を見るのは、後世の人間なのだから。

 

境界線

左:たそがれるユリカモメ(旧中川にて)、右:中州から清澄方面を臨む(隅田川清洲橋にて)

鶸色(ひわいろ)に萌えた楓の若葉に、ゆく春をおくる雨が注ぐ。あげ潮どきの川水に、その水滴は数かぎりない渦を描いて、消えては結び、結んでは消ゆるうたかたの、久しい昔の思い出が、色の褪せた版画のように、築地川の流れをめぐってあれこれと偲ばれる。
鏑木清方[著]、山田肇[編]『随筆集 明治の東京』(岩波文庫、1989)より「築地川」p84

 5月の連休中、深川に住む友人と会う約束があって、久しぶりに隅田川を訪れた。さっぱり晴れて、良い天気、時間もあるから歩いていこうと、三田の丘の上から出発すると、芝公園を横手に浜松町、新橋を経由して、銀座に入ったあたりで東に向きを変え、築地本願寺築地場外市場の裏手から勝鬨橋に出ることが出来る。正味1時間弱といったところ。案外近い。

 隅田川も最下流に当たるこの辺り、特に新大橋を過ぎると川幅も一気に広く、両岸も遠のいて、陸が水に没するところ、湾岸の雰囲気いや増して、川は既に海の一部と言えるだろう。隅田川を彩る二大名橋、清洲橋永代橋から南、月島と新川を結ぶ中央大橋佃島超高層マンション群の背後に広がる月島の古い市街、路地の奥には戦前?戦後?間もないころに建てられたであろう長屋が今でも残っている。隅田川下流の両岸のまち、全体的に一戸建てが少なく、川沿いの倉庫や工業はみな中低層のマンションに変わった。日本橋、京橋に隣接する関係か、会社のオフィスも随分と多いが、大通りから横に入る小道に紛れ込めば、通り沿いの喧騒とは一変、居住用のアパートやマンションが控えた昼も静かな住宅街、それは川の西側より東側でより顕著だ。かつての倉庫や町工場や材木屋は、アパートやマンションにその大半が入れ替わって、それでも一部残れる旧産業と、ここ10数年で急速に増えた各種スタジオ、こじゃれた喫茶店ないしレストラン、そしてアート施設等の所謂意識高い系店舗が住宅街に混在する。山の手と違って高級な色彩をまとうでもなく、豊富な樹木に恵まれるわけでもない。有機的な雰囲気はなく、ただ無機質の、コンクリート打ちっぱなしの内装に代表されるような。そんな色彩に乏しい街並みでひときわ目を引くのは、青々とした水辺の風景。

亀島川の河口。正面に大川端リバーシティの高層マンション街が見えている(中央区新川、高橋の上より)

 東京の都心とその東側に数多く分布していた河川はその多くが埋立てられ、旧河道は公園なり駐車場なり一般道路になって、その面影を忍ぶよすがもないが、中央区も新川あたりまでくると、日本橋川が首都高の蓋から自由になって、川面いっぱいに光を浴びているし、その少し南側では亀島川がぐるりと新川のまちをめぐって隅田川に接続している。永代橋を渡って対岸に出ると江東区に入るが、こちらに来ると小名木川、大横川、仙台堀川大島川西支川、平久川等の幾つもの運河が縦横に市街を画する。江東区の深川地区は、現代東京で最もよく水の景色が残された場所であると思うが、川一つ隔てただけで空気が変わるのは今も同じ。

 昔から隅田川の東に生きる人間は、隅田川を渡って都心に出ることを「東京に出る」といった。仕事でも買い物でもそうだが、特に顕著なのが教育面。東東京では、経済的に余裕があり教育に熱心な家庭は、子息を早い段階で「東京に出す」。それは小学校、遅くとも中学校からは地元ではなく「東京の学校」に行かせるという意味であり、地元の教育水準の低さに見切りをつけて、他所で高い教育を受けさせるためである。かく言う私も周囲よりだいぶ遅かったが、最終的には「東京に出る」ことになった。これも、川向こうと呼ばれるこの地域が東京の中で占める地位に関係するのだが、それもまた土地固有の地勢と開発史の賜物である。最近は高層マンションも増え、相次ぐ再開発で街並みもすっかりきれいになり、住民も入れ替わっているだろうから、かつてほどの独特な地域性は薄まっているとはいえ、ある時代までの川向こうに育った人々にとって、隅田川は「川向こう」と「東京」との間に横たわる、いつかは越えるべき境界として、機能していたのである。

左:向かい合わせの狛狐(猿江神社にて)、右:永代橋の上流にて(隅田川にて)

 そんな隅田川も、越えてしまった現在からしてみればもはや過去か。山の手の住民となり、身辺も大きく変わったのだから。それでも川のある街への回帰願望は断ちがたい。東京の東側に育ち、幼い頃より水辺に親しんだせいか、山の手の住民となった今でも、やはり川のある風景に心惹かれる。川のある街に、それもできれば居室の窓から広い水面を臨んでみたいと願い続けて、数年前に見つけたちょうど良いおうち、南向きの壁一面を窓にして、そこから眼下一杯に広がる隅田川。ひったきりなしに川を上り下りする観光船や橋を行きかう車や人を上から眺めるのは新鮮な気分だが、日が落ちると川を挟んで対岸正面に展開される月島の夜景がさぞかし綺麗だろう。池袋の家を引払うとなったときに、都合よく募集がかかったから、次の住居はここにしようと思って、、、しかしそうはならなかった。人生のターニングポイントは何の前触れもなく訪れる。憧れのおうちと、近場にあってやはり川の見えた候補物件もろとも全てを諦めざるを得なくなって、数年越しの引越し計画が一瞬にして水の泡、失意の果てに、しがらみのない全く新しい土地で人生を立て直すべく選んだのが山の手の、今の棲み家。

 そんなわけで引越してから4か月近く、この隅田川下流域のまちを避けていたのであるが、ついに機会が巡ってきて、久々に足を向けた。まだ川向こうへ渡る気力はないから、箱崎、浜町のテラスを歩いて対岸に目を向ける。山の手=東京デビューの境界線としての隅田川は乗り越えたが、今度は隅田川が体現する「過去」と対峙しなければならなくなった。懐かしくもいとわしい過去。それを克服したときに初めて、私は以前のように運河めぐるまちにあそび、隅田川の両岸を自由に行き来して、その風景の中に我が身を置くことが出来るのかもしれない。

君なつかしと都鳥、幾代かここに隅田川、行き来の人に名のみ問われて
★久保田淳『花のもの言う―四季のうた―』(1984、新潮選書)よりp110

 

Vizについてのあれこれ

データセット

  1. 東京都環境局『公共用水域水質測定結果』(2019年、2020年、2021年度)
  2. 国土交通省『土地履歴調査 首都圏地区Ⅰ 東京地区』「東京東北部」「東京東南部」「東京西北部」「東京西南部」
  3. 国土交通省『国土数値情報 河川 第3.1版』「東京都」
  4. 東京都内の各河川、池沼の写真と緯度経度データ

 1~3はオープンデータである。1からは各河川の基本情報として、約2年分の観測データから水深、SS(水中の浮遊物質)*3、透明度の平均値を取得した。もちろん、最適な方法ではなかったと思っている。川は点ではなく線なので、上流、中流下流でその姿を変えるのが一般的であり、ある一地点を代表値として表現できるものではない。本当は、河口ないし合流地点を基準地点と定め、そこからの距離別の水深、SS、透明度等を取得して、線グラフで表現したかったが、そもそも各河川別に「河口ないし合流地点からの距離」というデータが入手できず、地図上で計算する方法もすぐに思いつかなかったので、いろいろ悩んだ末に、いったん今回はこれで良しとすることにした。残された課題は今後のための主題としよう。

 2からは地形データと、過去の災害履歴データを使用した。前者は地区ごと、収録データ分類ごとに複数のシェープファイルに分けて提供されているので、まずはTableau Prepで必要な全データをUnionし、次に不要なカラムの削除を行った。後者に関しては今回深く取り上げないので、関東大震災(1923年)、カスリーン台風(1947年)、狩野川台風(1958年)の3つの被害データのみを抽出して使用した。3は河川の形状を表すラインデータと、端点を表す点データの2つが含まれていたが、今回は前者のみを利用した。

 4の写真とその緯度経度データは私のオリジナルデータである。写真は学生時代から約10年かけて撮りためたものだが、困ったことに写真そのものに撮影場所データが付属されておらず、どこで撮ったかわからないものが大半だった。なので、まずは撮影場所を特定してその緯度経度データを登録するという作業が発生した。写真中に撮影場所のヒント(名前のわかる建物や橋)がある場合はよいが、そうでない場合はできる限り思い出し、どうしてもわからない場合はだいたいの場所を振り当てた。なので、写真によっては撮影場所が実際の地点と異なる場所で登録されている可能性があることをお断りしておく。また、写真とセットでカットで入れた一文は、特に明記がなければ即興で作った私の作文、出典の記載があればどこかの書籍から引用した文章である。

 データまわりで一つ注意していただきたいのが3の河川データで、これが実は一部間違って登録されている箇所がある。例えば東京の東側を流れる「中川」であるが、本来であれば高砂で「新中川」と分岐するその上流の、亀有方面も含まれるはずである。しかし、データセット上は高砂より上流までもが「新中川」と登録されてしまっている。他にも、江東区内の主要運河である小名木川、堅川、横十間川の流路が一部しか登録されていなかったり、「名称不明」とカテゴリーされた複数河川が登録されていたり、江戸川や荒川、多摩川などの大河川の流路データ(ライン)が不自然に途切れていたり、江戸川区南部の長島川など、既に暗渠化されて地表からは見ることの出来ない河川が一部存在していたりなど、色々気になる点は多かったが、今回は一切こちらで手を加えることなく、「名称不明」データのみ除外して、あとはすべて原本そのままの状態で掲載した。そのため、現存する河川だけで成立した図でもなければ、現存しない河川をすべて復元した図でもない。あえて言うなら、現存河川に一部暗渠となった旧河川を復元した、少々奇妙な河川図が出来上がった。

参考にした記事

 Tableau内で画像を表示する、それも形状のオプションとして指定するのではなく、マップ機能を活用した背景イメージとして挿入し、かつパラメータと連動させる手法については、こちらの記事*4を参考させていただいた。私がオリジナルで付け加えた点としては、地図上で選択した地点の写真を表示するというアクション機能のみである。こちらは指定のパラメータをアクションと連動させるダッシュボードアクション機能を活用している。

 また、写真とそのコメントの背景に入れたバブルチャートのようなVizは、下記の記事*5の内容を丸々活用させていただいた。今回はランダムで並べた大小の円チャートで、水の流れと水の滴を表現している(つもり)。

 背景地図はいつもことながらMapBoxで加工したが、今回は河川を強調したかったので、河川ラインの幅をデフォルトより広く、やや誇張した形で図示した。データセットどうしは1対1のリレーションで関連付けてから、マップのレイヤー機能を利用して重ね合わせ、不要なものはハイライトしないよう「Disable Selection」機能にチェックを入れた。

*1:南葛飾郡役所(1923)『南葛飾郡誌』よりp104-132参照

*2:貝塚爽平(1979=2011)『東京の自然史』講談社学術文庫よりp48-54参照

*3:東京都環境局における説明は以下の通り。「水中に浮遊して溶解しない物質の総称で、水の汚濁状況を示す重要な指標のひとつです。河川にSSが多くなると、光の透過を妨げ、自浄作用を阻害したり、魚類に悪影響を及ぼします。また、沈降堆積すると、河底の生物にも悪影響を及ぼします」。出典はこちらのHPより。2023/6/24閲覧。

www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp

*4:

blog.truestar.co.jp

*5:

www.vizwiz.com

麻布と池袋(東京「山の手」の地域比較)

東京タワーの見えるまち

東京の「山の手」と一口に言っても、その内実は様々だ。

台地を刻む複数の河川とともに、高低差が生み出す変化に富んだ街並みは、土地土地固有の開発の歴史を読み込んで、それぞれに特徴ある地域社会を形成した。武家屋敷時代の区画を生かし、眺望を得る高台に配置されたお屋敷町。武蔵野の雑木と畠を切り開いた沿線開発に伴い誕生した郊外の田園住宅地。地域の歴史はその景観に、今もその地域独特の影響を与えているのか。

「住まう」ことをひとつの観点として、あるふたつの「まち」を事例に、その「違い」を定義してみよう。ある献立を構成する食材の価格分布から見た、東京「山の手」の地域比較

続きを読む

Remake AKASEN : Tokyo East Side Memory

両国橋の南側から見た隅田川(2019/4/22撮影)

 どこの都会でも、日本だけでなく、貧民窟は、イーストサイドとかイーストエンドとか云つて、市の東部にあるさうだが、本当かしら。もしもさうならどう云ふわけか。面白い現象である。
 帝大セッツルメントから、染料会社の流れ込む排水で悪臭を立てて青黒く淀んでゐる運河を越すと、所謂亀戸の私娼窟があつた。この銘酒屋の町も疥癬か何かのやうに徐々に東の方へ向けてひろがりながら移つて行くのも指摘出来る。寺島町の、所謂玉の井の銘酒屋についても十何年前と較べると同じことが云へる。美人を最も集める中心地帯もその風に移動して行く。
 どうして、そんなに東の方角を指すのだらう。

武田麟太郎(1938)「東にはいつも何かがある」『世間ばなし』相模書房よりp190

Vizはこちら↓

https://public.tableau.com/app/profile/haruna.matsumoto/viz/RemakeAKASENTokyoEastSideMemory/Door

 

はじめに

 昨年投稿したViz*1を全面的に作り直した。だからRemakeとある。作り直すのであるから、もちろんそれなりの理由がある。

 情報をデータに翻訳して、それをしかるべき手段で可視化しようと考えるとき、ダッシュボードという形態で世人にその結果を提供する方法は2種類あると言われる。ひとつは中立的なデータセットをこさえ、Viwer自らデータの世界に飛び込んでデータの海を探求することを促す「探索型」。もうひとつはCreator自らの世界観を表現するために厳選したデータを表現して見るものに提示する「解説型」。私が今回選んだのは後者だ。ある産業が成立したまちを題材に、その産業が成立したことがまちにどのような景観的な特徴を与たのかについて簡単に考察したのである。

 

変わりゆく人とまち

左:北小岩八幡神社のユニークな狛犬親子(2014/11/13撮影) 右:小岩地蔵通りの昼間(2017/11/3撮影)

 街は生きている。それは絶えず変化し続ける。特に東京のような場所ではその速度が極めて速い。しかし、たとえ現前する空間が変容しようとも、そこに一度経験された出来事は容易には失せてなくならない。土地の記憶、地歴というものは、何らかの形で関与した人々の記憶の中に永遠に生き続け、それが一時でも成立した空間に痕跡を残しうるものなれば、たとえ世間から忌み嫌われる風俗営業であっても同じこと。おお、これを社会悪の巣窟として忌み嫌うか。職業に貴賎なし、等しく土地に生きそこに痕跡を残すもの、その歴史は土地に重なって、現在のまちの景観なり、産業なりに受け継がれている。それについて知るということは即ちまちを知るということだ。

 このVizのもとになった私の修士研究は、20数年を過ごした東京の東側にある地元のまちが、全面的な再開発事業によって大きく様変わりすることをきっかけに始まった。変化の局面では様々の主体の思惑が交差する。皆がこのまち「らしさ」とは何かという問いを反芻していた。「らしさ」というものは複数あってよい。あるまちに住まい、あるいは通う各個人によってまちへの関わり方が異なるのであるから、当然体験される「らしさ」も異なるわけだ。ゆえに、ここに私が記すのも、ある一視点からみたまちの断面以外の何ものでもない。

立石赤線跡を案内してもらった記(2018/9/24撮影)※詳細は本文中を参照のこと

 今回のテーマは「赤線」*2である。「赤線」とは、戦中戦後のわずか12年足らずの間存在した国家公認の売春地帯であり、各地区のことを俗称「シマ」と呼んでいた。昭和33年、売春防止法の施行とともに「赤線」は歴史の表舞台からは姿を消したが、中には業態や業種名を変えてしぶとく生き続け、今につながる歓楽街として栄える「シマ」がある。新吉原はまさにそのまま、風俗の王様として君臨し続け、新宿二丁目は世界的にも有名なバー街、亀有や立石は地元密着のこぢんまりとした飲み屋街、スナック街になった。一方で、洲崎や亀戸のように旧跡悉く残らず、ごくごく普通の住宅街になった「シマ」もある。その運命を決めたのはいったい何であろうか。

左:現在は東向島駅となった旧玉の井駅(2018/6/2撮影) 右:向島三囲稲荷のお狐さん(2022/3/1撮影)

 当初のVizは東京23区全体を俯瞰する視点で作成したが、今回は少し思うところがあったので、東京の東の江東地区(江東区という意味ではない。川=隅田川より東側の地域という意味で用いている)に焦点を絞って、各「シマ」の動向にフォーカスした。これらのまちは、どのような経緯で「赤線」を受け入れ、また「赤線」があったことにより後のまちの景観や産業にどのような影響を与えたのであろうか。

 なお、使用したデータは前回のVizとほとんど同じであるが、一部差し換えたり修正を加えたりしたところがある。具体的には各シマの最寄り駅のデータ(昭和20~30年代当時の交通路線に従う)を追加した他、各シマについてのコメントにも少々長いものがあったので、表示の関係上削った。

 

グラフとその解説

以下、いくつかのグラフについてそのポイントを解説する。

赤線マップ

 前回は「シマ」の位置だけだったが、今回はレイヤーを重ねて最寄り駅のデータを追加した。当時の交通網を再現したかったので、現在と色々と違う点で少々苦労した。例えば、都電という今はなき路面電車が最寄り駅だった場合(洲崎、亀戸等)に関して、当時の駅の場所を探し出す必要があった。運良くまとめサイトを発見したので、都電各駅の緯度経度の情報は鉄道歴史地図 路線図・廃線を参考にしている。またこのグラフではないが、Tableauのいわゆる空間関数を用いて各「シマ」の最寄り駅からの距離を計算させている。

成長率グラフ

 

 業者数(=店舗数)を横軸に、そこで働く娼婦数を縦軸にもってきて、各年度のデータをプロットした。そして年のデータをページシェルフに入れて、経年変化を動的に表現した。このページシェルフという機能、おくればせながら最近知ったTableauの機能で、ここにデータを入れるとちょっとしたアニメーションのように動的なグラフを作成できる。どこかで使えないかなと思っていたので、よい機会だった。

サンキーダイヤグラム

 

 実をいうと、このサンキーを描きたいばっかりに、イースト東京をテーマにしたという裏話がある。東京23区の赤線は全部で13。うち、隅田川以東の「シマ」は9つ、つまり9色で収まる。サンキーは色数が多いと逆に見づらくなってしまうから、妥協の産物としてのイースト東京。ただこれでも色数としては少し多いので、各「シマ」の系譜関係に従いこれを3分類し、それぞれ同系色を配した(先ほどの成長率のグラフの配色も同じ)。まず洲崎と千住は旧遊廓、戦前は貸座敷として営業していた場所なので、「旧遊廓」というカテゴリーに。のこりは戦前の非公認私娼街、亀戸遊園地と玉の井銘酒屋街から誕生した新興勢力なので、それぞれ「亀戸系」、「玉の井系」とした。「亀戸系」は開設が古い順から立石、新小岩、亀戸(戦後)、東京パレス。「玉の井系」は同様に鳩の街、亀有、玉の井(戦後)。ちなみに個人的な覚え方は、亀戸四兄弟と玉の井三姉妹。

ヒートマップ

 

 サンキーで表現するのは少し色数が多い場合もそうだが、表示する項目のボリュームが一定でなくてばらつきがある場合、ボリューム的に小さい項目はボリュームが大きい項目につぶされてしまう(例えば業者数の多い鳩の街と玉の井、その反対の亀有、立石を比較してみよ)。このへんはサンキーの弱点である。それを補うため、隣にクロス集計表に色を付けてヒートマップにしたものを配した。左のサンキーで全体的な傾向とフローを、右のヒートマップでその詳細を見る形式。またデフォルトで数字まで表示すると情報量が多いから、選択した項目のみハイライトで表示されるようにした。

 

東にはいつも何かがあるイースト東京赤線のいまむかし)

荒川放水路河口近く(2014/11/7撮影)

 イースト東京をそのテーマに据えた時、私の頭に浮かんだのは武田麟太郎の「東にはいつも何かがある」(1938年)と、長唄「巽八景」(1839年、作曲:十世杵屋六左衛門、作詞:立川えん馬)だった。前者は、今回のVizにも登場する墨田区東向島、通称「玉の井」の、戦前の姿を描いた小説としてあまりにも有名な永井荷風著『濹東綺譚』でおなじみ木村荘八が挿絵を描いたことから知った。冒頭にその一節をひいたのはこのため。

 後者は学生時代、風俗街研究の一環と称して、近世江戸の岡場所として名高い深川遊里の書籍を多数買い求め、一冊ずつ眺め読み進めていた時に文献中で紹介されていて知った。遊里における男女の交情を、土地の情景を巧みに読み込み表現した作品として名高い。長唄常磐津もさっぱりわからないが、なぜかこの1曲だけ心に残った。唄われた八景は以下の通り。

  • 永代の帰帆
  • 八幡の晩鐘
  • 佃の落雁
  • 仲町の夜雨
  • 石場の暮雪
  • 新地の晴嵐
  • 洲崎の秋月
  • 櫓下の夕照

 せっかくなので、最後に各「シマ」のあらましを、「巽八景」を伴奏に紹介してみよう。ちなみに実際の「巽八景」の舞台は文字通り深川で、現在でいうところの江東区、富岡八幡のある門前仲町を中心に、隅田川に沿うその北西部一帯である。当時も今も大小運河が街を縦横にめぐり、これを渡す小橋は多く、地域の境界をなすのもまた川であって、東京でもとりわけ水面が広いところだ。昔日の水郷情緒ここに残れりとまではいかなくとも、水の都と呼べるくらいの雰囲気はあるだろうと思う。その水運を軸に一時代の繫栄を築いた深川遊里を描いた唄を、現代(と言っても時の流れは速いものでその大半はすでに過去の遺物となっている)に咲く夜の街に重ねて、今も昔も変わらぬ遊里のならい、ここに生き続けることを記そうと思う。

江東運河二景(左:2017/4/5撮影 右:2015/3/31撮影)

水で創られた土地は、いつまで経つても水と離れることが出来ず、今日になつても、依然として『水の都』の景観を保つてゐる。

深川区誌編纂委員会(1975=2000)[編]『江戸深川情緒の研究』有峰書店新社よりp3 ※大正15年刊行の『深川区史 下巻』の復刻版

 女のいる「シマ」につきものなのは柳だが、どちらも水辺によく映える。湿っぽくてじめじめした土地は、からっと乾燥した山の手の台地とは異なる陰影を土地に刻み込むのかもしれない。


洲崎

大江戸と ならぬ昔の武蔵野の 尾花や招きよせたりし 恋と情の深川や
縁もながき永代の 帰帆はいきな送り船

 洲崎がまだ根津にあった時のこと。作家の坪内逍遥は、本郷の学生時代に友人に誘われ登楼した根津遊廓の、大八幡楼の花紫という花魁を見初めた。それは激しい恋であった。花紫の雇い主である貸座敷経営者からすれば、大事な花魁が、貧乏くさいインテリ青年にぞっこん惚れてしまい、自らの稼ぎの分の投げ出して養おうとするのだから、こんな損なこともない。娼妓は男を惚れさせて男の金を巻き上げてこそ商売、それなのに自分から男に惚れた挙句貢ぐとは何事かというわけである。最終的に逍遥は、パトロンの力添えで花紫を身請けし、結婚した。結局花紫は稼ぎにならなくなってしまったので、将来有望な大学生と結婚させるという体面で、花魁を手放すことは貸座敷側からしてもいい厄介払いだったと岡崎(1988)は述べている*3。いずれにせよ、エリート大学生と花魁の熱愛及び結婚は当時ちょっとした話題になった。

 これはよく知られたエピソードだが、おそらく記録に残らぬばかりで同様な事例は他にもあったのかもしれない*4。帝大側も目と鼻の先に存在する遊廓と、学業ほったらかしでいそいそ通う学生に頭を悩ましていた模様。ついには東京府及び警視庁が立ち上がり、これ以上根津での商売はご法度、営業継続したければ深川のまち外れ、埋立地の洲崎へ移転せよとの通達を下した*5

洲崎(人間探究編集部(1952-05)「東京の性感帯」『人間探究』25 号)

 洲崎に移転後は付近の工場に勤める工場労働者、大工や左官といった職人、深川の船頭らがメインの客層に早変わり、インテリ花街は瞬く間に庶民の遊び場になった*6。戦時中廃止され、空襲で壊滅した後、昭和20年21年2月2日に再開したときは戦前の半分の規模になっていた*7。都電が唯一の交通機関だったせいか規模の割にあまり振るわず、赤線廃止後、都電も廃止されると平凡な住宅地に変わった。今もその独特な街路構成は現存すると雖も、街並みはいたって普通の住宅商業地。これも昔は洲崎パラダイス。

大門通り沿道にある弁天商店街(2019/2/4撮影)

「恋だよ。どうも様子がね。洲崎へ行こうか、大橋へ戻ろうか、とあすこで迷っているらしい。」
微風添えば且つ靡く、柳やさしくなお視遣って、
「ここが思案の、と唄に言うのは、もっと小橋か、狭い町さ。万年橋で、思案をするッて、舞台手間の掛った先生だねえ。」
妙な言をまた言った
「どっちかに決めてくれないかね。。。じれったいよ」

泉鏡花芍薬の歌』p144より


鳩の街、玉の井

その爪弾の糸による 情に身さへ入相の きぬぎぬならぬ山鐘も
ごんとつくだの辻占に 燃る炎の篝火や
せめて恨みて玉章を 薄墨に書く雁の文字

 この2つは、その前身の玉の井銘酒屋街の時代から、やたら高学歴のインテリに好かれた花街だ。前述した荷風の『濹東綺譚』の影響もあるのかもしれないが(この小説は朝日新聞に連載され一躍話題になった経緯がある)、もっというとその立地が幾分か影響しているのだろうと思う。明治から昭和にかけての隅田川はボートレースが風物詩。これの普及に一役買ったのが当時の大学生だった。まず東京帝国大学が初の学生レガッタを開催、その後向島に艇庫を設置したのがきっかけで、早稲田、慶応、一橋大、外語大、明大、日大などが競うように向島に進出した。やがて向島には、隅田川に面して各大学の艇庫が並ぶ独特の景観が出現し、一時期「艇庫村」と呼ばれた*8が、なにもこの地にやってきたのは大学生だけではない。

鳩の街(人間探究編集部(1952-05)「東京の性感帯」『人間探究』25 号)

 明治末から大正初年にかけての東京では、警視庁による非公認の売春地帯=私娼街の撲滅運動が過熱していた。当時最大規模の私娼街であった浅草公園裏手の通称「浅草十二階下」*9は当局も最も熱い視線を注いだ先で、明治45年、象潟警察署長名で7ヵ条の遵守事項(大正5年新たに3ヵ条が加わって10ヵ条に)が提示され、娼婦の新規雇入れや往来での客引き等を禁止*10された。さらに新規開業を認めず営業権は一代限で相続を認めない等の追加制裁が加わった*11から、これはたまらないとついに銘酒屋業者は浅草の地に見切りをつけ、隅田川を渡って江東の地へと逃れた。そこで手招きしたのが土地発展のために花街を誘致しようともくろむ向島の有力者たち。両者結託の元、向島秋葉神社の周辺にその名も「秋葉遊園地」なる新たな銘酒屋街が誕生した*12

戦後の玉の井(人間探究編集部(1952-05)「東京の性感帯」『人間探究』25 号)

 これにあっさり魅了されたのが向島のボート学生たちで、根津の悪夢再来とばかりに青くなったのは向島に艇庫を持つ各大学だ。このままではいかんと各大学名を連ねて警察と共同戦線を張り、銘酒屋街を潰しにかかった*13。秋葉遊園地はわずか一か月後には芸者町に鞍替え(今に続く向島花街の隠れた成立事情)、残党はさらに東へ追われたが、ここに東京市区改正(現代的に言うと市街地再開発事業とでも言えようか)の道路計画に引っ掛かって「強制移転」の対象となった浅草公園五区と千束界隈の銘酒屋のうち千束二丁目への移転抽選にもれた何軒かと、浅草公園六区の整備事業に伴う移転組が合流*14し、ついに向島寺島町字北玉の井に蝟集、土地発展のためと地元有力者を中心に花街設置を望む機運が高まっていたことも後押しして、ここに新しい遊園地を建設したのは大正8年頃のことであった*15。戦前の玉の井銘酒屋街ここに誕生である。折しもその5年前の大正3年隅田川に白髭橋が架橋され、翌年にはこれを起点に四つ木方面へ伸びる大正通りが開通して、交通の便が約束されたところであった*16

昭和初期の玉の井(1935年前後)*17

 さすがに大学当局も玉の井まで監視の目を向けることはなかったとみえて、この「シマ」は向島地区の都市化に伴い、順調に成長していく。警察当局もこの「シマ」を決して公認したわけではないが、おおむね黙認していたようであり、むしろ都心の私娼街の有力な移転先としてその存続を特別に許していた節もある*18。しかしいずれにせよ、公認されざる立場であることに変わりはなく、貸座敷や三業地のように営業の保証は得られていない。警視庁のお気持ちの次第でいつ取り潰されるともしれない不安定な立場であるという状態は続いた*19

 それでもこの「シマ」はしぶとく生き続けた。特に関東大震災以降、「十二階下」から流入する業者が多く一気にその規模は膨れ上がった。そのためまちづくりが追い付かず、耕地整理も土地区画整理もなくそのまま市街化したため、幅の狭い、曲がりくねった農道由来の細道が至る所に残されて、それが遊客にわかりづらいからこの道通れますの意味で「ぬけられます」の看板掲げ、それが東京イーストサイドの迷路(ラビリンス)の奇抜な風景として荷風の小説で取り上げられ全国的に有名に。東京大空襲で壊滅するが、昭和20年7月10日にまず寺島町一丁目で鳩の街が移転再開、次いで同年8月8日に荒川放水路以東の亀有に、そして旧地では翌21年1月18日に新玉の井が再開の運びとなった*20。田園と庶民の葛飾カラーに染まった亀有はともかく、鳩の街と玉の井は相変わらずインテリご贔屓の「シマ」で、とくに鳩の街はイースト東京における最高ランク、西の新宿二丁目に匹敵するハイカラな花街として繁栄*21し、どちらかというとお値段リーズナブルで付近の工場労働者向けだった玉の井も「時折、ハキ溜に降りた鶴よろしく高級車が停り、重役級の白髭、ハゲゼントルマンが降り立つ」*22と称されたくらい、イースト東京でも別格の存在だった。赤線廃止後、この2つの「シマ」は紆余曲折ありながらも徐々に周辺の住宅街と同化してゆき、今では全く墨田区の平凡な商工業混在市街地の一画を形成している。

私たちの世代の常識でいえば、玉の井すなわち私娼の街であった。逆ないい方をすると、そこに銘酒屋街がなかったら、玉の井という町名は世上に知られることはなかったろう。いや、実をいうと、本文の中でも書いたように、旧向島区にも現墨田区にも、玉の井と名のつく町はないのである。そのあたりは昔は寺島町であり、今は東向島町である。そのくせ不思議にも「玉ノ井町会」が堂々と現存している。あまりにも天下に知れわたった玉の井という名を捨て難いのであろうか。
大林清(1983=2017)『新装版 玉の井挽歌』青蛙房より「あとがき」


亀戸

女子の念も通し矢の 届いて今は張り弱く
いつか二人が仲町に しっぽり濡るる 夜の雨

 玉の井とは反対に、インテリに好かれなかった「シマ」が亀戸だ*23。本所深川の市街に隣り合う、東京東郊の一寒村に過ぎなかった亀戸村は、明治40年代前後から水運の便を頼りに相次ぐ大中小工場の群立をもって、やがて成立する城東工業地帯の中核市街になった。そんな亀戸には、学生服のインテリよりも作業服の職工が似合う。東京のイーストエンド=江東の工場地帯をその主戦場としたプロレタリア文学者たちも、亀戸花街にさほど興味関心を持たなかったらしい。結果、それなりに名前は通っているのにも関わらず現存する情報が少ない。研究者泣かせの「シマ」である。

亀戸(人間探究編集部(1952-05)「東京の性感帯」『人間探究』25 号)

 工業地帯化に伴い、さらなる土地の発展のために風俗営業の設置が検討されていた明治末年は、前述したように東京市内の私娼街取締りが過熱していたその渦中。ならば郊外にその移転先を用意しようと、土地の有力者層が動き出す。まず初めに天神様の居廻りに芸妓屋が出現した。明治40年前後の事である*24。そこから待合が許可されて、料理屋、待合、芸妓屋の三点揃った亀戸三業地が誕生する。三業組合は競合を避け既存営業を自衛するためと称し、新規に芸妓屋を開業する業者に対し組合へ株金金百五十円を収めることを条件に課して軍資金を集めたが、翌明治42年4月には早くも定員オーバーとなりこの規約は1年余りで満了となった。組合はぼろ儲け、「亀戸ばかりは黄金の雨が降る」*25とはよく言ったものだが、どうやらその資金の一部あるいは全部を使って開発されたらしいと私が睨んでいるのが、天神裏の旧津軽越中下屋敷跡1万2千坪余、亀戸町3700番地。明治41年10月より埋立て翌年9月に竣工した、通称「亀戸遊園地」*26である。

裏門の変遷
左:「本所絵図」(1849-1862 年頃) 右:東京逓信管理局『東京府南葛飾郡亀戸町大嶋町全図』(1911)

 「町の有志達はこの機会を利用して、天神の裏手に當る水田一萬三千坪を買収して天神社に寄付し、更に土地の繁栄策として之を遊園地として第二の浅草六區を現実にしやうと着々工事」*27した。つまり亀戸遊園地は当初から浅草六区を模範として開発された。天神様と浅草寺に見立て、園内を十字に区切る大通り、そのうち南北に流れる奥山通りと亀戸天神の裏門を接続する。ちなみにこの裏門は幕末の絵図*28にすでにその姿が見える天神西側櫻町の裏門ではない。遊園地の開発に伴い裏門はつけ変わったのである*29。さらに園内は瓦斯電燈を完備し、完成した街区はそれぞれ鶯谷、梅王町、松王町、櫻王町と命名された*30。そしてこの遊園地に亀戸最初の銘酒屋2軒が「飲食店」の建前で開業したのが明治43年*31。遊園地竣工の翌年のことであり、ここに合流したのが前述した「浅草十二階下」を追われた銘酒屋たちだった*32大正8年前後の好景気の波はこの新興銘酒屋街にも幸いして、勢いを得た一派は遊園地を飛び出し近所の市電柳島車庫最寄り活動写真柳島館近辺に「柳島新地」を形成した*33大正12年時点で「遊園地」に190軒、「活動写真柳島館周辺」に77軒の銘酒屋が存在したという*34。さらに関東大震災後、被災した浅草の銘酒屋が大挙して江東に転地したのをきっかけにまた拡大。ついに昭和4年時点で銘酒屋業者の組合は5つに分かれ、親友会242軒、懇話会96軒、平和会 47軒、正栄会20軒、南睦会44軒、合わせて5組合449軒の銘酒屋が営業し、同年の娼婦数は765人を数え戦前の最盛期を迎えた*35

亀戸天神の鷽(2015/3/16撮影)

 やがて戦況はその激しさを増した。城東の工業地帯にあった亀戸は、東京大空襲で焼失。業者は死屍累々たる亀戸の町を離れ、荒川放水路以東の立石、新小岩、小岩(東京パレス)に新天地を求めて四散した。中には古巣に戻ってきた者たちもいて、昭和20年11月15日に元の亀戸遊園地跡地で営業を再開*36。戦後もやはり工員メインの客筋で、インテリ好きしないところは相変わらず*37。赤線廃止後もしばらくは紅灯を照らしていたようだが、交通不便なこともあってすたれ、現在では住工混在市街地となっている。

天神様の御思召ではなからうが、あのゐまはりには妙な家がごたごたと密集してゐる。商店街を一歩裏へ踏み込むと怪しい嬌聲が乱れ飛ぶ。まさしく城東の迷路である。(中略)工場労働者の大部分をなす未婚者若しくは経済的結婚不能者の群れがこれらの特殊街の存在を必要としてゐるのだ。しかもさうした満たされぬ階級は次第に増加してゆく。下級サラリーマン、学生層の中にもその要求を持つ人々が多いのに徴しても明らかなことだ。

報知新聞社経済部(1934)『大東京繁昌記』成美堂書店よりpp236-238


亀有、新小岩

堅い石場の約束に 話は積もる雪の肌
とけて嬉しい胸の雲 吹き払ふたる晴嵐は しんき新地ぢゃ ないかいな

東京都民生局婦人部福祉課[編](1973)『東京都の婦人保護』収録の「都内赤線・青線地域別見取図」より亀有

 亀有は、名前こそ亀戸と似るが全く関係のない「シマ」である。ルーツも亀戸系ではなく玉の井系。東京大空襲で被災した旧玉の井銘酒屋街の業者12名が再起をかけるべく、娼婦50人ばかりを連れ、都心を背に荒川放水路を渡った先の亀有で、駅からほど近い裏通りのアパート数棟を買収して建設した新天地*38。昭和20年8月8日の開業。亀有楽天地とも。旧玉の井のボスであり、有名な「ぬけられます」の看板を考案した人物と言われる山口富三郎氏が代表を務めた*39。亀有に来てからは昔の玉の井情緒をさらりと捨てて、まっすぐ伸びる放射道路に沿って近代的洋館群が美観を競う*40。「シマ」の入り口付近に朱塗りの太鼓橋(柳橋といったらしい)を架けた*41ところは亀戸天神をほうふつとさせるが、実際に亀戸を模したものなのかは不明。毎年9月の香取神社のお祭りには、亀有の娼婦たちが地元サービスとばかりに神輿を担いだ*42とか。場所柄客筋は近所の工場に通う職工や地元葛飾の農村青年であったから、都会風のモダンボーイが来ると大いにモテたんだとか*43

亀有楽天地跡。付近には風俗店や飲み屋が多く立地している(2019/1/16撮影)

 赤線廃止後、多くは旅館に転業したが、元々駅近の好立地、その後は再び飲み屋街になって、今でも風俗営業が立地する。当時の建物はもちろん現存しないが、ある意味ではイースト東京の旧赤線地帯で唯一現存する?「シマ」といってよいのかもしれない。

新小岩(人間探究編集部(1952-05)「東京の性感帯」『人間探究』25 号)

 新小岩は通称丸健カフェー街と呼ばれた。現在の地理でいうと、新小岩駅からまっすぐ南に延びるルミエール商店街の終点、ちょうどアーケードが終わるあたり。駅から距離はあるものの、商店街の地続きでそこまで不便ではなかったようである。空襲で焼け出された亀戸遊園地の業者と、川1本挟んだ隣まちの平井三業(芸者町)の業者が組んで、新天地で一旗揚げようと荒川放水路を渡ってやってきた*44。昭和20年8月19日開業。紛らわしいが所在は江戸川区であり小松川警察署の管轄。

 終戦直後は黒人兵向けの慰安所として稼働、オフリミットののちは専ら付近の若い工員相手の「シマ」となる*45。工業地帯という場所柄もあり、一時は地回り不良のたまり場となってガラが悪いと評判を下げたが、業者の必死の努力で風紀を改善、新しい固定客も開拓した*46。発足当時は業者13軒に娼婦37人*47とささやかなものであったが、順調に規模を拡大、やがて業者数・娼婦数ともに荒川放水路以東で最大の赤線に成長した。その意味で一番成功した「シマ」である*48。後述するおとなりの東京パレスと明暗がはっきり分かれた。現在は住宅と商業が混在する雑然とした市街になって、昔日の面影既になし。

新小岩スバル飲食店街。赤線とは無関係?で立地も異なるが妙に雰囲気のある場所である(2018/10/15撮影)

錆びた調子を求めるなら、都心より遠いところほど味が深い、一般に華麗とまではゆかないが、安心して一夜の歓をつくすという情緒があります。

中村三郎(1954-03)「実態調査 赤線青線地区総覧」『実話雑誌3月増刊号』(第9巻3号)三世社(※引用はカストリ出版による復刻版)よりp34


立石

洲崎の浦の波越さじと 誓ひしことも有明
月の桂の 男気は 定めかねたる 秋の空
だまされたさの真実に 見おろされたる櫓下

立石(人間探究編集部(1952-05)「東京の性感帯」『人間探究』25 号)

 当時の遊蕩児に、イースト東京9つの「シマ」の中で、一番地味で貧乏くさい場所はどこかと尋ねたら、おそらく真っ先に立石の名前が上がるだろう。東京大空襲で壊滅した古巣をあとに、新天地にその命運をかけた亀戸の業者8軒が、たまたま幹部の自宅があったからという理由で、娼婦30人を連れはるばる超えた荒川放水路京成立石駅北口の目と鼻の先に建て並ぶ、「古典趣味を解するよほどの男でなければ、まずきたない家だと思う」長屋数軒を買収して、開業したのが昭和20年6月6日のこと。大空襲で壊滅した新吉原(同年6月13日再開)や鳩の街(同年6月19日再開)よりも早いのはもとより、イースト東京の中でも先陣切って開業にこぎつけたところまではよかったものの、時間と金をかけて(少なくとも外観だけは)美しく整備された他の「シマ」と異なり、極小長屋を無理に改造、増築を重ねたせいで、まるでその雰囲気は「場末の古い木賃宿*49。よく言えば「安直さと親しめる何物かの魅力」*50があるということ。「立石は京成電車という沿線生活共同体の春期発動機関である」*51

 そんなところだからお値段もひときわリーズナブル。イースト東京中、いや東京の赤線中最安クラス。他のシマが宿泊最低1000円はとるところ、ここ立石だけきっかり700円。しかも実際はもっと安く、500円くらいから泊まれたとか*52。当然美人もインテリ女もダンサー上りのアーティスト勢も置いていない。それでも「美人よりサービスを期待して捨て難い味」があったそうで、コアなファンはいたらしい*53。業者側もあんまり背伸びしなかったということもあり、成長もしないが目立った衰退もしない。同じ亀戸四兄弟でも、後述する東京パレスのように散々あがいた末に転落するようなこともなく、新小岩のように手堅く商売して徐々に勢力拡大するわけでもなく、あえて言うなら欲張らなかったという感じか。イースト東京の隅っこにちんまり存在し続け、赤線廃止後は揃って飲み屋街に転向した。

立石赤線跡(2018/9/24撮影)

 赤線廃止から70年以上の歳月が流れ、他の「シマ」が跡形もなく消え去っていくなか、この「シマ」はしぶとく残り続けた。大学院生の頃、風俗街を調べているのならぜひ来てみなよと、立石が行きつけだという知人が案内を買ってでて、中に入ったのは一度だけ。通路は狭く、両側から建物が半ば傾くように寄せてきて、昼間であるというのにかなり暗い。おまけに変な色の照明がついていた。突き当り左に折れたところで、目の前にぬっと現れた大きな看板に、黒く太い字で呑んべえ横丁と書いてあるのを見た時は一瞬ヒヤッとした。「立石四十一軒のシマの入口にやせこけた柳をうえて、風流めかしく「柳通り」と命名しているが、化粧の女がションボリ立っていて、むしろ幽霊屋敷の景物にふさわしい」*54と評されたというのもわかる気がした。それでもここ10年ばかり、よそから訪れる人がぐんと増えて、曜日によっては行列ができる盛況だから、すっかり酒場の観光地化だねと案内人。それまでは地元の年配者と飲み歩きの通くらいしか見向きもしなかったものが、それも土地の若い衆はこんなところで呑むより都心に出てしまうから、まちというものはつくづくよそ者にこそ発見されるものなのかもしれないと。そこに集う人が変わるとまちも変わるのかもしれない。

もとより都市の盛り場には地縁的要素が欠落している、と考えるのは短絡にすぎる。
というよりも、間違いではないか。都市の盛り場にも、地縁的社会が育つ―。それは、稀なことであるが、不思議なことではない。

神崎宣武(1987)『盛り場のフォークロア河出書房新社よりp194

 

東京パレス

疑ひ晴れし夕化粧 目元に照らす紅の花 幾世契らん諸白髪
浮名たつみの八景と その一と節を立川の 流れを筆に残しける

 東京パレスと聞くとどこのことかと思うが、小岩である。
 場所は千葉街道二枚橋交差点の正面。最寄りである総武線小岩駅からフラワーロード商店街を南下、千葉街道に出たところで右折、そこからさらに数百メートル歩いた先。今も昔も小岩の町はずれに立ち並ぶ団地めいたアパート群、そこにかつてイースト東京中最も奇抜な趣向をもち、それゆえ数奇な運命に翻弄された「シマ」、東京パレスが存在していた。

東京パレス(人間探究編集部(1952-05)「東京の性感帯」『人間探究』25 号)

 この「シマ」は他の亀戸系の兄弟分とは異なり、その開業に際して周到な計画性をうかがわせるところに特徴がある。戦時中は精工舎の女子寮であった5棟の建物*55を、まず原田源之助という人物が5千坪の土地付きで買収し、次に亀戸遊園地の業者約100名により、原田を社長とする組合を組織、各業者がそれぞれ 3人から4人の女を連れて入ったのが始まりとされる。昭和20年10月10日には同所に事務所を置き、同年11月28日「進駐軍慰安用デパート式娯楽施設」として華々しく開業*56。食堂やダンスホールにプールまであって、さらに各棟をつなぐ廊下には様々な飲食店や小売店が軒を連ねるという賑やかさ*57。そしてここの女は娼婦ではなくダンサーを名乗る。ジャズバンドの演奏に合わせて踊りながら相手を選ぶしくみである。「東京パレスはダンスで品定め」*58。「ステップを踏みながら女の耳もとで値段の交渉をするなど赤線と違った味わいのあるものである」*59。交渉が成立すればダンサーの自室に引き上げて、あとは他の「シマ」と同じである。この斬新なアイディアは当時の警視総監、坂信弥が生み出したものだと言われる*60

 東京パレスは価格設定もぶっとんでいた。当時、近隣の亀有や新小岩の相場が時間5円以内、泊り15円以内だったというのに比べ、東京パレスでは邦人時間10円、宿泊40円。外人時間30円、宿泊120円という設定だった*61。これは、亀有や新小岩が産業兵士慰安のため、つまり工場労働者をターゲットとしていたのに対し、進駐軍向けを意識して作られた東京パレスはそもそもの客層が違うことに起因するのであろう。ともかく東京パレスは外国人の記録にもたびたび顔を出す。ジャーナリストのマーク・ゲインは、その著書『ニッポン日記』の中で「世界最大の妓楼以上のもの」*62と評し、労働基準法などの制定に携わったGHQの職員セオドア・コーエンも、自著の中で東京パレスの一風変わった風習について次のように記録している。「ここは一種のべルトコンベア方式で営業されたので、戦時中フォード社が建てた巨大な爆撃機製造工場の名前をとってウィロー・ランとも呼ばれた。ここに入った兵士や水兵は入口で日本式に靴を脱ぐが、事をすませたあと、長い兵舎のような建物の端にある出口で、ピカピカに磨かれた自分の靴をはくという仕組みになっていた」*63。ちなみに東京パレスの外国人向け名称は「インターナショナルパレス(通称IP)」であった。

左:住宅協会(1960)『東京都全住宅案内図帳』に見える東京パレス 右:現在の東京パレス跡地

 開業当時、小松川警察署に提出された書類*64によると、敷地4,252坪、建物は二階建て5棟で総面積1,700 坪余り、慰安稼業室は260室、想定娼婦数2,000名という大所帯。計画段階では、まぎれもなく都内の赤線中最大規模である。戦前戦後と東京の性風俗を牽引した新吉原は空襲で壊滅し、同年11月末時点でもまだ娼妓42名で細々営業していた*65という時に、小岩の片田舎で2,000名もの娼婦を蓄える一大妓楼の建設が計画されていたということ自体が驚きであるが、そこに亀戸業者の並々ならぬ執念を感じないでもない。長らく公認されざる花街であった亀戸は、つねに公的遊廓であり国家の庇護を受ける新吉原に抑えられ、いつ摘発されるかわからないぎりぎりの綱渡り、つね警視庁の顔色を窺って商売してきた。だからこそ、戦後のどさくさに紛れて、ライバル新吉原が弱体化しているこの好機、東京花街の勢力転換を図ろうとした、そんな風に思えるのである。

現在の小岩の夜の街。南口の小岩地蔵通り商店街(左)と北口の仲通り商店会(右)

 しかし、鳴り物入りで登場した東京パレスであったが、盛況だったのは進駐軍専用時代だけで、邦人向けに解放*66されてからはさっぱり振るわなかった。開業当初は業者数100を超え娼妓数も200名を下らなかったという*67が、はじめて公的統計に表れる昭和23年の時点で、当初の勢いすでになく、業者数は100を切り、娼婦数も100名と少しばかり。上から数えるより下から数えたほうが早いくらいで、以後は業者数、娼婦数とも伸び悩んだ。何とか起死回生をと業者も奮闘。錦糸町にある「Pストリップ劇場」とタイアップして早朝200名に限りダンスホール無料入場券を配布*68。さらに4月は「桜祭り」、10月は運動会、創立記念日にはダンサーたちが振袖姿でその名も「パレス音頭」を踊り、クリスマスは100坪の大ホールと大運動場を無料公開して「一大祭典」を開催するなど、スペシャルなイベントを通年企画*69。奇抜な趣向が多いから文化人が見学に来る*70坂口安吾の『田園ハレム』で世人に知れ渡り*71、あの荷風も市川から足しげく通い、江戸川区長も呼ばれて祝辞を述べた*72というが、かつての栄華を取り戻すことはついにできなかった。規模を取っても成長率の悪さを取っても、イースト東京中最もぱっとしない立石と同程度、下手すりゃそれすら下回る年もある。ただ価格は下げなかったから、そこでなんとか顔をつなぐ。とはいえ堕ちるところまで堕ちたのだ。

sss

昭和20年代の小岩、新小岩の呑み屋で配られていたらしいマッチ。「新開地」は後の柳小路(夢屋Nさま提供)

 全国の赤線を取材したルポライターである渡辺寛は「赤線漫談」(1954-05)の中で、「戦後逸早く進駐軍慰安用インターナショナルパレスとしてお目見えしたのが日本人にお下げ渡しと相成った。その当時は鼻持のならないキザな場所であったが最近は地の利が非常に悪いのが幸いして東京ではめずらしく牧歌的遊郭と相成った」*73とその消息を記している。

 つまり、ダンスホールもジャズバンドも、ダンサーとの自由恋愛も、当時のイースト東京には似つかわしくない代物だったいうことである。ちょっと背伸びしすぎたこの「シマ」の生命は短かった。赤線廃止後は転業じたいが少なく、非商業系に転向するか事業を畳んで転出するかが多数を占めた。亀戸四兄弟中もっとも後に誕生し、もっとも早く消滅した「シマ」、亀戸業者が見たつかの間の夢、それが東京パレスであった。

在りし日の柳小路(ピア設計事務所Yさま提供)

 付け加えると、東京パレスの消滅とともに、小岩のまちから紅灯の輝きが全て消えるということはなかった。総武線小岩駅の周辺に新しく生まれた(その成立背景もなかなか興味深いものであるがスペースに余裕がないので今回は省略する)歓楽街が再び夜の享楽空間を演出し、良くも悪くも経済の隠れた一要素として、まちの発展を支えてきた。小岩駅周辺の再開発事業は古く昭和40年代まで遡る。すなわちこのまちは、半世紀以上の年月をかけて少しずつそれらを取り込みつつも浄化?してきたわけであるが、その最後の灯がこの度の再開発で消えようとしている。つまり、風俗営業がけん引してきたまちの、一つの歴史が終わろうとしているのだ。この節目の時に、ひと時代のできごとを取りまとめ後世の誰かのために残しておこうと、ここに描くイースト東京の風俗地図。古いものが地歴の層に埋もれたあと、その上に展開される新しい景観は、いったいどんなものであろうか。

小岩銀座は柳が招く 行こうかシネマに
いつそひとりで、ニューメトロ
ソレコノ字小岩はコラサノサ おぼこ育ちの戀の街

★「小岩文化新聞」(昭和21年12月15日発行第8号)掲載の「小岩銀座通り商店会の広告」より

 

*1:

https://public.tableau.com/app/profile/pigeonwing/viz/23_16630787827760/introduction

*2:赤線そのものと定義や成立背景については以下の文献が詳しい。①加藤政洋(2009)『敗戦と赤線 国策売春の時代』光文社新書。②小林大治郎、村瀬明(1961=2016)『雄山閣アーカイブス 歴史篇 みんなは知らない―国家売春命令―』雄山閣。③三橋順子(2018)『新宿 「性なる街」の歴史地理』朝日選書

*3:岡崎柾男(1988)『洲崎遊郭物語』青蛙房よりpp212-220参照

*4:例えば、警視総監西久保某氏は学生時代根津遊郭の花魁と馴染みになり駆け落ちする騒ぎを起こして退学騒ぎなったという。東京帝国大学新聞社[編](1926)前掲書よりp19参照。また少し時代は下るが、近く白山花街の芸者と帝大生の心中事件もあった。「東京帝国大文科で哲学研究中」の或る大学生は、白山芸妓の吉子と恋に落ちたが、学生の身ゆえ頻繁に逢瀬を重ねること能わず、また家庭が厳格であったため親は二人が夫婦になることを断固として許さなかった。遂に追い詰められた若い二人は「双方心中と決心し」、山陰城の崎温泉に身を隠し、同所海岸より二人手を繋いで身投げをせんものと海底を眺めたが「男の方が哲学かぶれした男なので」急に気が変わり、その後しばらく関西地方を放浪して、遂に死に場所を琵琶湖に定め、二人小舟に乗り沖合遥かに漕ぎ出し投身自殺してしまった。遺書には二人を同じ寺に埋葬し香りの高い花を手向けて貰いたいとあったが、男の親が頑なに拒んだため、芸妓吉子の抱え芸者屋は男の葬式に極秘に参加して遺骨の一部をもらい受け、戻って吉子の棺に納めたという。島田豊三(1932)『白山三業二十周年記念 白山繁昌記』白山三業株式会社よりpp179-180参照

*5:洲崎遊廓の移転経緯については、別のVizにまとめているためそちらを参照のことhttps://public.tableau.com/app/profile/pigeonwing/viz/_16617613731420/sheet0

*6:渡辺寛(1955)『全国女性街・ガイド』季節風書店p67参照。なお内外タイムス(1953-10)も似たようなことを述べている。内外タイムス(1953-10)「洲崎パラダイス」『赤線新地図』(※渡辺豪[編]『赤線の灯は消えても... 大衆紙が伝えた、売春防止法と東京の赤線』カストリ出版に収録)よりp16参照

*7:小林大治郎・村瀬明(1961=2016)『雄山閣アーカイブス 歴史篇 みんなは知らない―国家売春命令―』雄山閣よりp111参照

*8:墨田区教育委員会(2010)「向島艇庫跡」墨田区堤通一丁目(区立堤通公園)内に設置されている案内板より

*9:重田(1934)によれば、大正5年5月の私娼街調査において、「浅草千束町」(いわゆる十二階下)単独で銘酒屋 841 軒、雇婦女 2,156 人に達し、他の「日本橋郡代」(銘酒屋33軒、雇婦女108人)や「芝神明」(銘酒屋75軒、雇婦女147人)を大きく引き離していたという。重田忠保(1934)『風俗警察の理論と実際』南郊社よりp89参照

*10:重田(1934)前掲書よりpp90-91参照

*11:新吉原遊廓のある関係者によれば、この条項には①新規営業の届け出は不許可、②営業権は一代限りで名義変更は認めない、という隠れた取締規則があったという。私娼街の取り締まり強化は同時に公娼街の規制緩和を伴い、新吉原では「張見世」制度が禁止されたのと引き換えに、30坪以下店舗の許可、石造・煉瓦造・塗屋造以外の家屋の許可、貸座敷の飲食店兼業の許可などが与えられたという。市川伊三郎(1936)『新吉原遊郭略史』新吉原三業組合取締事務所よりpp68-72参照。なお、糸春水(1916)『なさけを売る女』近松書店 pp172-185 にも同様に、新規営業の禁止、営業権は譲渡不可で一代限り、新規雇女の禁止など、類似の条項が見える

*12:秋葉遊園地の誕生経緯については以下の文献が詳しい。①奥野恒次朗(1939)『向島』「向島」発行所。②高木通一郎(1967年頃)『向島界隈諸資料13 向島花街沿革』複本、③『向島界隈諸資料14~15 年表』複本。いずれも墨田区立ひきふね図書館所蔵

*13:上村敏彦(2008)『東京 花街・粋な街』街と暮らし社よりpp24-30および墨田区役所(1978)『墨田区史 前史』よりpp925-928 参照

*14:塩崎文雄(1997) 「震災復興と文学―<濹東綺譚>の考古学―」(原田勝正、塩崎文雄[編]『東京・関東大震災前後』日本経済評論社pp221-274に収録)よりpp186-187参照。同様の指摘は他にもあって、前田(1986=2015)および日比(2010)が荷風の『濹東綺譚』を基に指摘するように、1919(大正8)年前後に市区改正事業の一環として計画された言問通り浅草寺の裏手を通るため、その路線上にあった銘酒屋が取り払いとなり、業者は玉の井の大正道路沿道に流れついたという

*15:玉の井」の誕生史については複数説があるがいずれも似通ったものだ。まず旅行ジャーナリストの松川(1932)は、元府会議員小島某が向島の芸者屋を移転させ三業地設置を目論み其筋にかけあったが許可されず私娼街となったという。次に警察関係の雑誌では大正8年頃、地主某が土地繁栄を目的に小料理屋を開いて女を置いたのが始まりであるとする。国策パルプの社長で昭和の著名な実業家、「ガマ将軍」というあだ名のある南喜一の説では、その沿革は氏が玉の井に住んでいた 大正9年頃であり、「政友會の中島某等が此所を指定地にする権利をとつて行つた仕事」であった。銘酒屋は土地の地回りとグルになっていて、新しい女が来ると地回りに「或る種の特権」を与え宣伝とご機嫌取り利用していたという。重田(1934)のまとめによれば、最初地元の有力者らが1919(大正8)年 2 月に玉の井稲荷社を中心に「遊園地」計画を立てるが失敗、次に近隣の水田を埋め立てて料理屋や飲食店を建設、合わせて同年秋に三業地の地区指定の申請をしたがこれも不許可となり、その後私娼街へ発展したという。松川(1932)前掲書よりpp127-128参照。坪井貴次(1937-04)『警察新法』第22号4号「玉の井私娼街見聞記pp48-51からp48参照。南喜一(1940-03)『中央公論』第55巻3号(通号631号)「玉の井二十五年」pp248-260からpp248-249参照。重田(1934)前掲書よりpp99-100参照

*16:塩崎(1997)前掲書よりpp240-241参照

*17:日本火保図社『火保図 向島区 昭和 5~19 年』都市製図社 墨田区立ひきふね図書館所蔵(複写版)より作成。道路名、銘酒屋の区分は日比恆明(2010)『玉の井 色街の社会と暮らし』自由国民社を参考にした。また銘酒屋(紫)は原本地図で点線に囲まれた家屋を着色

*18:この点については取締る側の警察関係者の次のような証言が残されており興味深い。「(前略)然し大震火災の際、其の区域(引用者註:十二階下・千束町2丁目)も全部焼失したのを機會に、東京市民の遊楽場所たる浅草公園附近に、賣淫常習者集團地を存在せしむるは不可なりとして、改めて根絶すべきことに決定したのである(。)然るに『根絶すべきこと』は口にすることは容易であるが、行ふことは決して容易ではない。毎日相當多数の制服、私服の警察官が取締に當りながら、約一ヶ年の時日を経過して尚絶滅せしむることが出来なかつた。然し其の地域に於ける媒合容止者も、結局娼賣を継続することが不可能であることを知つて、何時の間にか亀戸に於ける斯の種の集團地内へ轉入するに至つた。茲に於て初めて絶滅の實を挙ぐることが出来た。従つてこれは其の結果から見れば絶滅でなくして、移住を強制したに過ぎないとも見られる。是に依つて觀るも、斯の種の集團地を根絶せしむることが如何に困難であるかが判る」。副見喬雄(1928)『帝都に於ける売淫の研究』博文館よりpp138-139参照

*19:東京郊外の土地に就て調査したある報告書は次のようにこのあたりの消息を伝えている。「玉の井遊園地は最近著しき発展をなせるため地価も亦非常に騰貴し五、六〇園以上と唱ふる向もあり、又実際の売買地代等も相当の高値を現出し居れど営業の性質上財界並に警察の方針の将来、就中警察の方針一変して干渉厳にするが如きことあれば忽ちにして凋落を来す可きを以て姑く附近の状況と参酌して最高四〇園に止めたり」。東京興信所(1922)『南葛飾郡寺島村土地概評価』東京興信所よりp5参照

*20:小林・村瀬(1961=2016)前掲書よりp111参照

*21:渡辺(1954-05)によれば、鳩の街はセミ・プロから素人まで幅広いタイプの娼婦がおり、その分価格の幅が広く、表通り沿いは泊り2500円クラスだったが、あとはそこまでいかなかったという。渡辺寛(1954-05)「あのはな・このはな 花街めぐり」『旅行の手帖 東京・ヨコハマなんでもわかる』(※カストリ出版の復刻版『赤線全集 完全版・売春街ルポルタージュ』よりp50参照

*22:渡辺(1955)前掲書p66参照

*23:インテリか否かという観点から少しずれるが、亀戸と玉の井の雰囲気の違いは当時から度々話題になっていた。例えば、添田(1930)は玉の井に関して「風情があつた。亀戸の下等に対してここは上等の風があつた」と言い、葛岡(1923)は玉の井が小料理屋風で小綺麗にしているのに対し、亀戸は銘酒屋風で汚らしく、まさに「どん底」な街だと評価している。添田唖蝉坊(1930)『浅草底流記』近代生活社よりp243、葛岡敏(1923)『どん底より』白黎社よりpp50-51参照

*24:石田(1934)によれば亀戸に芸者町の需要が認識されたのは1903(明治36)年の官公一千年祭の時であったという。その前後して亀戸町は工業都市化していくのであるが、小松・佐藤(1929)における「亀戸花柳界の発展は(中略)明治四十三年頃」、「花柳界らしくなつたのはホンの十五六年前」とする記述はこれと一致している。佐藤(1913-08)も「工場設置後の特産物共いふべきものは花柳界の発展」、「諸會社の勃興が今日の亀戸花柳界を作るに興つて力あつたものである」と記している。工場の男子職工が主な顧客であったと想定される「シマ」だけに、工業化と花街の繁栄は切っても切り離せまい。おそらくは官公一千年祭での賑わいをきっかけに芸者町開発構想が一部地権者の間に起こり、工業地帯化とともに計画として具体化したのであろう。なお東京の花街史をまとめた加藤(1956)「この地は明治三十八年日露大戦後の、勝利景気の万歳風に煽られて開設されたもの」と述べている。石田龍蔵(1934)『明治變態風俗史』宏元社書店pp474-476 参照。佐藤武雄(1913-08)「土地の研究 十年に二倍せる亀戸の膨張」『ダイヤモンド』第4号よりpp13-14参照。小松悦二・佐藤政之助(1929)『帝都郊外発展誌 城東の巻(亀戸編)』南葛新報社よりpp130-131参照。加藤藤吉(1956)『日本花街志 情念百年史 紋章の研究』四季社p326参照

*25:石田(1933)前掲書より

*26:東陽堂(1910-08)『風俗画報 東京近郊名所圖會 第 5 巻 東郊之部』(80号)よりpp25-26参照

*27:石田(1933)前掲書よりp477参照

*28:近世の亀戸裏門で署名な料理屋に「玉屋」がある。文政年間(1818~1829)に著名な料理屋を描いたシリーズ『当時高名会席尽』(歌川国貞)の中の一編に「亀戸玉屋」(1823(文政6)年の作)とあるのが初出であるが、「玉屋」は1824(文政7)年刊の『江戸買物独案内』(飲食之部)には「亀井戸 御料理 玉屋喜八」と記載があった。つづく天保年間(1830~1843)には歌川広重による『江戸高名会亭尽』が刊行され、その中に「亀戸裏門 玉屋」を描いた一枚がある。芸者二人が雪の中に傘をさして歩くところ、「玉屋」の下女らしい女性が桶を担いで戻ってきたもよう。ここから「玉屋」が裏門出てすぐの地先、常夜灯に松に塀のある立派な料理屋であったとわかる。『東都名所 亀戸天満宮境内全図』(1831年頃)や『江戸名所図会7巻18 亀戸天満宮』(1836年)にも、天神社西側に鳥居がありここが裏門であったことがわかる。石田(1934)によれば「玉屋」のある裏門あたりは「櫻小路」と呼ばれていたらしい

*29:亀戸天神社官公御神忌1075年大祭事務局(1977)『亀戸天満宮史料集』より明治30年代の亀戸天神の様子が描かれているが、裏門はまだ西側にありそばに料理屋亀川が位置していたことがわかる

*30:東陽堂(1910-08)前掲書からpp25-26参照

*31:重田(1934)前掲書よりp97参照。また小松・佐藤(1929)も亀戸町最初の銘酒屋の開業を明示明治43年としている

*32:葛岡(1923)によれば、「十二階下を追はれた銘酒屋が(引用者註:大正)八九年頃の好景気時代に乗じてその羽翼を伸ばし」た私娼街が亀戸であったという。葛岡敏(1923)前掲書よりp50参照

*33:重田(1934)前掲書よりpp97-98、小松・佐藤(1929)前掲書よりpp139-140を参照

*34:葛岡(1923)前掲書よりp50参照

*35:小松・佐藤(1929)前掲書よりpp139-140参照

*36:小林・村瀬(1961=2016)前掲書よりp111参照

*37:渡辺(1955)前掲書p68参照

*38:小林・村瀬(1961=2016)前掲書よりp82-83参照

*39:内外タイムス(1953-10)「亀有」『赤線新地図』(※渡辺豪[編]『赤線の灯は消えても... 大衆紙が伝えた、売春防止法と東京の赤線』カストリ出版)よりpp26参照

*40:愛情生活編集部(1951)『ペンとカメラが捉えた おんなのマーケットが18もある 東京特飲街めぐり』(※カストリ出版の復刻版)よりp66参照

*41:渡辺(1955)前掲書p67‐68参照

*42:内外タイムス(1953-10)前掲書よりpp28-29参照

*43:小林・村瀬(1961=2016)前掲書よりp108参照

*44:小野常徳(1958)「ルポルタージュ赤線(シナリオ)」(※南博・林喜代弘[編](1983)『近代庶民生活誌14色街・遊郭II』三一書房に収録)よりp190参照

*45:人間探究編集部(1952-05)前掲書よりp15-17参照

*46:中村三郎(1954-03)「実態調査 赤線青線地区総覧」『実話雑誌3月増刊号』(第9巻3号)三世社よりp34参照。なお渡辺(1955)も『全国女性街ガイド』で、新小岩に最近若い子が増えて固定客をつかむようになったと述べている

*47:1945年9月15日の数値。東京都が進駐軍用特殊慰安施設として作成した一覧表より。出典は渡辺寛(1954-01)「赤線区域の経済白書」『東京案内』(※カストリ出版の復刻版『赤線全集 完全版・売春街ルポルタージュ』よりp30参照)

*48:しかしここはその立地が住宅街と商業地が入り混じる場所にあり、その商店街が新小岩駅に向かう人々の通勤通学路でもあったから、周辺住民との間に軋轢も生まれることになった。例えば『江戸川新聞』1949年6月10日付(第6号)「末恐ろし女給遊び“お兄さん遊んでいたつしやいヨ”この頃の子供の実態」では、赤線の女が客引きをする様子をまねて、子供たちが「おにいさん遊び」というごっこ遊びをはじめたことに驚き嘆く母親の声、この道を通って通学する女学生の影響を心配する声など紹介している。また、同新聞1947年7月22日(第12号)「ああ“この道”通る 新小岩カフエー街この頃」では、通学の際にここを通るという若い女性からは「大通りで堂々とたつていることはどうかと思います」、幼い子供がいる母親からは「教育上まつたく困つたものです、平常なるたけこの道は通らぬようにいつていますが、子供達に廻り道をしろというのが無理なので、やつぱり駅の方に用事の時はこの道を通るので心配でなりません」と懸念する声を載せている

*49:神崎清(1954)「みじめな特飲食街ー立石というところ―」『戦後日本の買春問題』社會書房pp154-158参照

*50:人間探究編集部(1952-05)「東京の性感帯」『人間探究』25号よりp18参照

*51:渡辺寛(1954)「赤線涼談」『東京案内』(※引用は渡辺豪(2016)『赤線全集 完全版・売春街ルポルタージュ』カストリ出版)よりp21参照

*52:神崎(1954)前掲書p161参照。他の資料を見ると、渡辺(1955)は12時過ぎからの宿泊が700~800円、愛情生活編集部(1951)は600円~1000円。人間探究編集部(1952-05)は1000円。中村(1954-03)によれば500円~700円とある。渡辺(1955)前掲書p68参照。愛情生活編集部(1951)『ペンとカメラが捉えた おんなのマーケットが18もある 東京特飲街めぐり』(※カストリ出版の復刻版)よりp72参照。人間探究編集部(1952-05)前掲書p19参照。中村(1954-03)前掲書p43参照

*53:渡辺(1955)前掲書p68参照

*54:神崎(1954)前掲書p157参照

*55:宿舎がいつ建築されたのかその詳細は不明なるも、1936年6月撮影の航空写真にその姿は見えず、1944年10月にはじめて確認できることから、この間のものと考えられる。当時から東側に5棟の家屋が見え、それぞれ細い渡り廊下で連絡していた。国土地理院提供の航空写真「東京東部」(1936年6月11日撮影)および「東京横浜」(1944年10月22日撮影)より

*56:ドウス昌代(1978-06)「敗者の贈物―RAA(特殊慰安施設協会) 第 3 回マッカーサーの二つの帽子」『現代』(第12巻6号)よりp402参照

*57:特飲街探訪―東京パレス―」(1951-04)『旅』(第25巻4号)よりpp54-55。東京パレスを紹介した日本人記者の書いたルポルタージュには必ずと言ってもよいほど登場する特徴である。例えば、渡辺寛(1954-05、1955-04)、人間探求(1952-05)、愛情生活編集部(1951)など

*58:夫婦生活社(1952-03)「夜の東京 盛り場探訪 大東京青春のパチンコ島 東京パレス・亀戸・州崎は遊蕩楽天地」『夫婦生活』(※引用はカストリ出版の復刻版より)p32参照。なお1952年時点では、入場料50円にチケット10枚綴りが150円。ホールは17時開場で、置屋ごとに1名の女の子がホール当番として出席し、そこで客の相手をして踊ることになっていたという。愛情生活編集部(1951)『ペンとカメラが捉えた おんなのマーケットが18もある 東京特飲街めぐり』(※カストリ出版の復刻版)よりp39参照

*59:渡辺寛(1955-04)「あのまち・このはな 花街めぐり」『旅行の手帖 東京・ヨコハマなんでもわかる』(※引用は渡辺豪(2016)『赤線全集 完全版・売春街ルポルタージュ』カストリ出版)よりp52

*60:坂総監は戦時中の 1937(昭和12)年2月、鹿児島県の鹿屋市に海軍航空隊少年兵を客層として想定した性的慰安施設「特種市街」を作った人物として知られる。娼家はわずか10軒であったが、娼婦はダンスホールのダンサーとして登録され、少年兵と恋愛して性的接触に及ぶという「建前」で運営されていたところにその特徴があった。なぜこのような風変わりな施設を作ったのかというと、当時鹿児島県は県を挙げての公娼廃止運動に向かっており、1937年末には実際に廃娼が決議されていたため、あからさまな買売春施設は作ることが出来なかったためである。この「鹿屋方式」が戦後、同じ人物によって手掛けられた慰安所、東京パレスとして復活したのである。藤目ゆき(2018)「坂信弥―鹿屋に占領軍「慰安」施設の原型をつくった内務官僚」『アジア現代女性史12号pp60-68および渡辺豪(2019)『赤線 1958/S33(解説)』カストリ出版pp60-62参照

*61:小林・村瀬(1961=2016)前掲書よりpp82-84参照

*62:マーク・ゲイン(1951)『ニッポン日記 上』筑摩書房より

*63:セオドア・コーエン[著] 大前正臣[訳](1983)『日本占領革命 GHQ からの証言 上』TBSブリタニカよりpp199-200参照。なおコーエン自身は千葉県船橋市にある施設と記しているが江戸川区小岩の間違いであろう

*64:小林・村瀬(1961=2016)前掲書よりpp83-84参照。同個所は警視庁経済部長から小松川署長への通達部分

*65:小林・村瀬(1961=2016)前掲書よりpp30-31参照。なお同書によれば、東京パレスが開業した1945年11月末時点で、一施設最大の娼婦数を誇ったのは向島接客所の323名であるという

*66:人間探究編集部(1952-05)「東京の性感帯」『人間探究25号』によれば、邦人向けに切り替えられたのは1948年からとある

*67:『小岩文化新聞』1947年2月28日付(第10号)「貯蓄 月額十五萬円を超ゆ 職業婦人の自負から 東京パレス従業員貯蓄組合を作る」参照

*68:内外タイムス(1953-10)「東京パレス」『赤線新地図』(※渡辺豪[編]『赤線の灯は消えても... 大衆紙が伝えた、売春防止法と東京の赤線』カストリ出版)よりp7参照

*69:愛情生活編集部(1951)前掲書よりpp40-41参照

*70:例えば、東京パレスが赤線だと知らず?ダンスホールとばかり思って出かけた作家に吉野弘がいる。その時のことを描いた「東京パレス」が『詩学』(1968-11)第23巻10号(通号232)に掲載されている。他にも落語趣味から関りをもった正岡容、それに同行した宮尾しげお、ダンサーたちと座談会を開催した玉川一郎がいる

*71:初出は 1950年9月1日発行『文藝春秋』(第28巻12号)。戦後混乱期の風俗を切り取った連作ルポルタージュ安吾巷談』のうち1作。『安吾巷談』は1950年1月から12月にかけて雑誌『文藝春秋』に連載され、翌年には文藝春秋の読者賞を受賞している

*72:正岡容の随筆「東京パレス紀行」より。正岡容は落語の世界に詳しかったことから、講談落語の愛好家であった「パレス支配人の原元治郎さん」の贔屓をうけるようになり、その縁で昭和25年10月の「創立五周年記念ダンサー大運動会」に招待されて東京パレスを訪れている。そこで、江戸川区長が祝詞を述べる場面に遭遇したらしい。正岡容(1952)『艶色落語講談鑑賞』あまとりあ社よりpp319-320参照

*73:渡辺寛(1954-05)「赤線漫談」『東京案内』(※引用は渡辺豪(2016)『赤線全集 完全版・売春街ルポルタージュ』カストリ出版による復刻版)よりpp13-14参照

「近代花街の社会空間的変容」解説記事

 ひとくちに風俗街といっても、ある街区に「街」として具現化されたその姿は、ある時代、ある地域の事情に対応して、柔軟に変化している。根っこの軸は不変であるとしても、人間の飽きっぽく忘れやすい性分のせいか、表向きのサービスは常に新規色を求め、変化し続けること目まぐるしいばかり。
 本Vizは、近代東京の風俗街=花街空間に関する統計データを用いて、その社会的、空間的な変容を描き出した。そこから見えてきたことは、貸座敷、引手茶屋、娼妓から成る遊廓空間は、料理屋、待合茶屋、芸妓屋及び芸妓から成る芸者町と比べ、一貫してその発展速度が鈍かったばかりか、大正12年関東大震災を境に「遊興」的な側面を失い、売色専門の肉体サービス直売所に変化したということである。

Vizはこちら↓

https://public.tableau.com/app/profile/haruna.matsumoto/viz/_16792688519780/main

続きを読む